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映画『君の名は。』を観た

2017.03.01.Wed.01:57
もともと本当に興味なかったんだけど映画『君の名は。』を観た。
理由はベタに邦画の興行収入でトップ10入りを果たして次々と記録を塗りかえるほどに人気だったから。
そういう映画をけなす・批判する・「俺にはなんで人気なのかわからん」と言うことは容易い。
自分が映画館に足を運ばせるきっかけとなったのはそういった斜めから構える容易さの忌避感と、
「なぜこの映画は人気なのか」という探求心と、
「そんなにみんなが観に行ってるんだから一度観てみよう」という素朴な興味からだ。

という前置きで始まって「107分って少し短いな」と思いつつ映画館で実際に作品を観た感想をば。
面白かったです。単純に。
自分がもうおっさんになってしまったからなのか、途中で涙ぐんでしまったところもあった。

率直に感じたのは「若い人が観て感動する映画だなあ」。
そして「ああ、批判される理由もわかるなあ」とも思った。
そんなところから
『君の名は。』のアニメ映画作品としての面白さはなんなのか、というところと、
その魅力はなぜ若い人たち…特に10代のお客さんを熱狂させるのか、というところを見ていきたい。

まず『君の名は。』の特徴の一つとして「映像の美麗さ」というのがある、らしい。
メディアがそう言ってるから。
これは『君の名は。』だけの話ではなく監督を務めた新海誠が手掛ける作品に一貫した定評のあるポイントだという。
実際に作品の中では、例えばW主人公のひとり・宮水三葉が初めてもう一人の主人公・瀧の体と入れ替わった日の朝。
目の中に飛び込む東京の街並み、新宿を走る路線、渋谷の人の往来。
その風景を写実的に、何より「美しく」仕上げている。
物語前半のそのシーンで「メディアの言ってる『映像美』ってこういうことか」と納得した。

メディアは「『君の名は。』は限られた予算の中で作られた」と言う。
そしてまた「動画の枚数がほかのアニメ作品と比べても少ない」とも言う。
それがわかるところがあって、これも瀧の目(実際には三葉)に飛び込んできた東京の街並みのシーン。
線路に沿って流れていく電車。
普通のアニメーションなら何枚も使って電車が動くさまを描くところを、
実は一枚の絵をずらして動かしているだけだったりする。
このシーンで「あ、枚数が少ないってのはココね」と思った。

映像美の点でもう一つシーンを上げると「隕石が三葉の住む糸守町に堕ちていく」ところ。
浴衣姿の三葉の真上を隕石が流れていく様子を描いたこのシーンで、
ぐるぐると動くカメラワークに雑草のざわめきがこれでもかというくらい繊細に、ダイナミックにたなびいており、
町一つを消してしまうという破滅の瞬間でありながらそれとは真逆を行くかのように
映像は美しさが際立っていた。

さて「映像の美しさ」はまさにその通りなのだが、それだけではこの作品の特徴をうまく言い表してはいない気がする。
何と呼べばいいかとすればそれは「緩急」ということになると思う。

東京の街並みであったり頭上を行く流星であったり、「美しい」と思わせるシーンが「ここぞ」というところで
全面に押し出されてるのだ。
いくら美しいといえどその映像が延々続いているだけだと観客はそれに慣れてしまう。
ではなく、雑草一本一本の細かなざわめきの表現に大量に動画枚数を使う一方で、
通常のシーンでは少ない枚数で済ませてたり
あるいは流れる電車のように大胆に削ってしまうことで「美しい」部分と「そうでない」部分にメリハリをつける。
そうすることでより「美しい」部分がクローズアップされる。
観ている客に強い印象を残すことになる。
これは動画を多く使えないという現状ゆえに編み出した策とも言えるだろう。
削るところは削り、使うところは使う。
この「緩急」が『君の名は。』の一つの特徴だ。
そして「予算の少なさ」と新海監督の真骨頂と言われる「映像の美しさ」を見事に両立させているところに
「おっ」と感心したのであった。

もう一つ映像の特徴の一つとして挙げられるのが「ドアや戸が開く」カット。
家の引き戸、電車の自動ドア…
『君のは。』だけの特徴かもしれないが、「ドアや戸が開く」カットが劇中にこれでもかというくらい多く登場する。
このカットの視点が面白くて、
ちょうど戸やドアが走る「収まり」のまん真ん中から、カメラの向こう側に向かって開く、というシーンになっているのだ。
「視点が面白い一枚絵」になっていて、見る人に新鮮な感覚を与える。
さらに何度もこのカットを使うことで、これが物語のテンポを生み出している。

先述した「緩急」とこの「独特のカット」が『君の名は。』の作品のリズムを生み出す要因になっている。
さらに上映時間107分という時間に加え、リズムの良さが観客を飽きさせない。
これらによって観る人に「『君の名は。』という映画はこういう感じなのだな」と思わせるに至らしめ、
『君の名は。』が面白いと思わせるリズムになっているといえる。

続いてストーリーの部分。
大雑把に言うと、東京に住む高校生の立花瀧と、
遠く離れた岐阜県の山あいの町・糸守町に住む宮水三葉の心と体が入れ替わり、
そこから二人の「お互いがうまくやっていくための生活」が始まる。
前半まではよくあるラブコメの設定だが後半にどんでん返し。
実は二人が行き来する間には3年のタイムラグがあり、
しかも三葉の住む糸森町は隕石の落下により町のほとんどが消失してしまっていた。
そして三葉もその災害により命を落としており…
瀧はすべてを確かめるために「3年後」の糸森町に向かう。

どうですか。この映画レビューに載せてもいいぐらいの作品紹介。(自賛)
前半にしろ後半にしろ、やっぱり「どこかで見たストーリー」感は否めないと思う。
だがこの「どこかで見たストーリー感」が大事なのだ。

『君の名は。』のエグゼクティブ・プロデューサーである東宝・古澤佳寛氏(だったと思う)がテレビのVTRでこう話していた。
「この作品を作るために相当のマーケティングをして相当に練った」(だったと思う)
ある記事では「どうやって"より多くの人に観てもらえるか"」的なことを追求したといった内容が書かれていた。
作品づくりのいの一番に始まったのはここで、「より多くの人に観てもらうこと」が作品作りの起点になっている。
そのより多くの人に見てもらうためにはの解答として"誰にでもわかる物語"を選んだのだ。

「今までにない作品づくりを!」をスローガンにすると奇をてらい過ぎて
難解なストーリーになったりしてとっつきにくいものになりがちだ。
それでアニメファンや映画ファンは喜ぶかもしれない。
しかし普通のお客さんは見てくれなくなる。その人たちの評価は低くなる。
だからこそ選ばれたのはわかりやすい…「どこかで見たようなストーリー」だ。
そしてただわかりやすいだけでなく、
「男女の心と体が入れ替わる」「悲運のラブストーリー」と、
いかにも日本人が好みそうな設定をチョイスしている。

また「より多くの人に観てもらうこと」が作品作りの起点になっているからこそ「見せ方」にこだわっている。
先に書いた「作品のテンポ」にも通ずる点だが
前半のストーリーでも、冒頭「電車から降りる三葉のほどいた髪留めを瀧が受け取るシーンからはじまり、
その夢を見ていた三葉が起きる。
そして普段と違うところにいると感じた三葉。実はこの時すでに三葉の中身は瀧に入れ替わっていたのだ。
そのまま展開が進むのかと思いきや、「中身が三葉のまま」の三葉で物語が続いていく。

これは物語が進むにつれ瀧と三葉の体が入れ替わっていることがわかるのだが、
「心と体が入れ替わる」「タイムラグがある」という設定を効果的に使うことで「謎」を作り、
「一体どうなってるんだ?」と観客に思わせて作品に引き込ませる。
そういった見せ方にしているのは伏線を多く張り巡らせているためであり、
また伏線を張り巡らせることによって『君の名は。』という作品のテンポを生み出していることにもなっている。

作品の外の部分ではどうだろう。
『君の名は。』を特集したNHKのクローズアップ現代+では「(ヒットの理由は)SNSでの拡散、"バズ"にある」としていた。
映画の公開前はそれほどクローズアップされていなかったが、
公開一か月前に主題歌と劇伴を担当したRADWIMPSが「前前前世」のMVをアップ。
そこで一気に人気が出たという。
また映画の公開以降もSNSを中心に話題となり、その「口コミ」がどんどん拡散されて今のヒットにつながった、
ということだった。

ヒットの理由として確かにSNSでの拡散、口コミは大いにあると思う。
実際に自分もそれで映画館に足を運んだクチだ。
だがそれだけではなにか腑に落ちない、ヒットの理由として足りない気がした。

そんなときある記事を読んでいたところこんな文章を目にした。

「これまで新海監督が培ってきたものをすべて合わせた得意分野で、「これぞ新海誠作品!」と言えるような作品にしましょう、「新海監督のベスト盤にしましょう」ということは話し合いながら決めていきました。」 [『君の名は。』エグゼクティブプロデューサーが語る、大ヒットの要因と東宝好調の秘訣 - リアルサウンド]



先にも書いたがエグゼクティブ・プロデューサーの古澤佳寛氏は
「この作品を作るために相当のマーケティングをして相当に練った」と語っていた。
つまり「新海誠という名前をもっと世の中に広める」
"新海監督作品を世に売りだす"ということだ。

筆者は新海監督の他の作品を観たことがないのだが
テレビの特集で過去の新海作品がVTRで流れたのを目にした。
チラリ程度の長さの映像だったが、「これは観る人を選ぶなあ」と見て思った。

映像の美麗さという点は過去の作品にも確かに見て取れたが、『君の名は。』に比べてくどいなと思ったし
キャラクターデザインも好きな人は好きなデザインといった感じ。
作品の雰囲気もなんとなく"暗い"印象があった。

これらの点を踏まえ「新海誠という名前をもっと世の中に広める」のスローガンのもと『君の名は。』の制作が行われた。
これまでの新海作品は観る人選ぶ、だから人を選ばない作品を創ろう、と。
より多くの人に作品を観てもらうためにはどうすればいいか。
それを実現するためにとったのが入念なマーケティングであった。
『君の名は。』のストーリーはなかなかベタである。
作品の雰囲気も明るい(特に前半)。
新しい感覚にあふれた前衛的な作品はj観客につっぱねられることがあるが、
ベタなストーリーはより多くの人の心にフックする可能性が高い。
その作品作りの方向性が「"売れる"作品をつくっただけ」と批判されることにもなってしまったのだが…
新海監督がラジオ番組に出演した際に『君の名は。』の反響について語っていた。

最も嫌だった反響には、「新海は作家性を捨ててヒット作を作った」、「魂を商業的に売ってそれが結果的にヒットになった」、「ありがちなモチーフの組み合わせだけで、そりゃヒットするよ」、「こんなキャッチーなモチーフだけだったら100億超える映画になるよ」といった批判を挙げた。 [新海誠監督、“『君の名は。』は売れる要素の組み合わせ”批判に反論「そんなに容易ならやってみればいい」BIGLOBEニュース]



「それはその通りかも知れないと思うと同時に、そんなに容易なことならば皆さんやってみればいいんじゃないかなとも思います」
と真っ向から反論したそうですが…笑
このコメントを読んでも"それはその通りかも知れない"と言っているので
映画作りのアプローチに関しては新海監督は自覚的であったと思われる。

とにもかくにも、結果たくさんの人が映画館に足を運ぶことになり、「売れた」のである。
こうした「より多くの人に観てもらうためのアプローチ」が『君の名は。』のヒットの理由と言えるだろう。



ここまで作品を好意的に見てきた。
筆者も実際に映画を楽しんで観ることができた。
ここからはどんどんツッコミを入れていこうと思う。
なぜなら『君の名は。』はたくさんの人を感動させた大ヒット映画であると同時に
ツッコミどころ満載の映画だからだ。

一番大きなところではやはり「流星の衝突」だろう。
物語冒頭の三葉がテレビを点けたところ流星のニュースが流れていた。
この流星は地球に最接近したところで崩れ、
その分散した流れ弾が隕石となり地球、日本に落ちて大災害を起こしてしまう。
落ちたところは三葉の住む糸守町。
瀧と三葉の心と体が入れ替わりは今現在リアルタイムで起こっているものと思いきや実は3年のタイムラグがあり、
隕石の衝突により糸守町の大半は消失、三葉は既にこの世にいなかった。
二人の繋がりは消え、心と体の入れ替わりも無くなってしまった。
瀧は真実を確かめるために糸守町に向かうことになる。
これが『君の名は。』の大きな転換部分だ。
作品のメインビジュアルにもなっているあの綺麗な流れる星は実は重要な意味を持っていたわけだ。

物語は「タイムラグがあった」「三葉はこの世にいない」という前提のもと、
話の中心が「三葉をこの世に取り戻す」ことに大きくシフトする。
さて繋がりが消えた理由はわかったが、
この事実が判明したこの時点で「なぜ心と体の入れ替わりが行われたのか」の説明は
全くなされていない。

三葉のおばあちゃんの赤い糸の繋がりの話や、三葉の家系が代々心と体の入れ替わりが行われることがある
という説明はあったが、
なぜ代々そういう体質なのかがわからない。

心と体の入れ替わりに3年のタイムラグがあったがなぜ3年のタイムラグがあったのかの説明はなく
わからない。

そもそもなぜ瀧と三葉が繋がりを得ることになったのかも物語でうかがい知ることも出来ずわからない。

さらに三葉が巫女を務める宮水神社に代々伝わる「口噛み酒」を
瀧が飲み干すことで3年前の三葉と会話を交わすことができるのだが、
なぜ「口噛み酒」を飲んだらまた繋がることができたのかもわからない。

すべて「こうしたらこうなった」というだけで物語はポンポンと進んでいってしまい
もういろんなところで説明は全くなされていない。ないないづくし。
理由は物語の中で語られることはなくすべて置いてけぼり。

もっと言って「流星の衝突で町が消えた」という設定。
突然心と体の入れ替わりが無くなった理由は三葉がこの世にいなかったから。
その原因が「流星の衝突」!?
一昔…いやふた昔前のギャグマンガか!?
といった具合なのである。

物語の前半と後半をわける「流星の衝突」が
映画を観る人の気持ちが冷めるか否かの境目だろう。
筆者も映画を観ている最中に「あっ、そういう展開なの?」と思ってしまい
一瞬冷静になった。

筆者は最初から割と楽しんで観ていた方なのでそんな大どんでん返しでも
最後まで見るモチベーションを保てたが、
観る人によってはもう最初から楽しめないというのはまあわかる。
前半のハートフルなラブコメ展開は多くの人に受け入れられやすいが、
一方で「こんなのありえない」「安っぽくて感情移入できない」などで毛嫌いされるものでもある。
あるいは自分のように鬱屈した学生時代を送ってきた者からすれば
あのキラキラが「眩しすぎて逆に見れない」というのもあると思う。
20代30代よりもうちょっと上のオタク第一世代や団塊ジュニア世代からすると
いまの美少女アニメ風に見えて面白くない、というのもあるだろう。

物語前半をそんな冷めた目で見てしまうと、「流星が落ちた」転換部分も「なんじゃそりゃ」となるだろうし、
先に書いたように後半の説明不足や、いわばご都合主義的な展開はもっと感情移入できないだろうことは
容易に想像できる。
『君の名は。』を「つまらない」と評する人たちがなぜそう思ったのはおそらくこんなところだろう。
逆に「一周回って面白い」という人もいるかと思う(笑)

この「感動した」「つまらない」という全く真逆のふたつの意見は実はどちらも正解である。
『君の名は。』は「思春期を越した人には見れない作品」だからだ。

またとあるインタビューで古澤佳寛氏のこんなコメントがあった。

「監督は、この作品を「思春期の人たちに投げたかった」と仰っていたんです」 [タイミングがすべてハマった。大ヒット映画『君の名は。』チームの作品づくりとは(ベストチーム・オブ・ザ・イヤー - getnews]


『君の名は。』は「思春期の10代の子たちに楽しんでもらえるように作った」作品。
これこそが新海監督やプロデューサー以下スタッフが目指したものなのだ。
映画はものの見事に10代を中心に受け入れられアッという間に人気を得た。
実際の作品づくりの手法とそれによって出来上がったものはまさにドンピシャ、
制作側からすれば大・大・大成功となった作品なのである。

別の作品を例にとってみよう。
2000年から約2年弱「ビッグコミックスピリッツ」で連載された高橋しん原作の漫画
『最終兵器彼女』だ。
北海道のある街で暮らすシュウジとちせは静かに恋をスタートさせた。
しかしある日謎の「敵」が街を空襲。
戦火のなかちせは「最終兵器」と化して「敵」と戦うことに…といったストーリー。
作者の高橋しんはこの作品を描き上げたあとのコメントでこのように述べている。

人より少しだけ不器用で。人より少しだけ恋のスタート地点が遅く。人より少しだけ、懸命に恋を駆け抜ける二人が生きる時間の記録です。ふたりの恋だけが、全てです。リアリティーなど、ただ、それのためだけにあればいい。二人の気持ちだけが、本当であれば。 [SINpre.com!]


それは、もう自分がとっくに過ぎてしまった楽しく、おばかで、恥ずかしい「あの」時代にもう一回向き合う日々であると同時に、作家として初めての感覚に捕われた日々でありました。 [SINpre.com!]


高橋しんはこの作品を描くにあたって「自分の好きなものを描きたい」というのと
「いずれ描けなくなるから」という思いで『最終兵器彼女』を描いた。
(初連載となった『いいひと。』が結構長く続いてしまったというのもある)
ふたりの恋だけが全てと言い切ってしまっている。
全てをわかった上でこの作品を作った確信犯だったのだ。
今はもう『君の名は。』に感情移入できない大人も、
思春期や20歳前後の頃にこの作品を夢中で読んだという記憶があるのではないか。

『最終兵器彼女』も賛否両輪のあった作品だった。
そしてある一定の時期を過ぎると素直に感動できなくなる、
まともに読めなくなる漫画である。
それは『君の名は。』も同じだ。
新海監督もすべてをわかった上で『君の名は。』を作った。
思春期の10代にとってのファンタジーであり素直に感動できる
「自分たちのリアル」な作品なのである。
物語の中でなされていない説明や強引とも思える辻褄合わせは問題ではない。
三葉の命が助かれば、
瀧と三葉の二人の繋がりが途切れなければそこはどうでもいいのである。

「思春期の10代の子たちに楽しんでもらえるように作った」ということは
「それ以外の思春期を越した人たち」を相手にしていないということだ。
いい年した大人がこの映画を観て軒並み「つまらない」と言うのは
まさにその評価は正解であり、なんら間違った感情ではない。
もっというと「つまらない」とは吐き捨てた人々は制作者側の思う壺にハマってしまっていたのだ。
ある意味、まんまと作品に踊らされたのである。


否定的な意見の側からも『君の名は。』を見てきたが、
あと少しだけ作品作りの気になった点を。

作品を語る上で忘れちゃいけないのが主題歌と劇伴を担当したRADWIMPSの音楽。
もともとRAD好きだったという新海監督。
出来上がった楽曲を聴いて監督はおろかスタッフも手放しで絶賛したということだが、
実際に映画を観てみると確かに曲と作品ががっちりフィットしていた。
曲そのものの善し悪しや好き嫌いは置いといて、このフィット感は目を見張るものがあった。
筆者はRADは聴かないしあまり関心も無いのだが
『君の名は。』を観て「おっ、ちょっとRAD聴いてみようかな」という気にはなった。
(実際には聴いてないけど)
前前前世くらいはきちんと聴こうと思った笑

思春期より上の世代からは「よくある今風アニメのラブコメ」と捉えられがちな物語前半だが
そう思わせない工夫も見られる。
一つはその生々しい設定だ。
三葉はとある田舎の政治家の娘であり、神通力?を持った神社の娘である。
その自然に囲まれた風景とともによくある田舎特有ののどかな感じと閉鎖感が出ていたのがなかなかリアルだった。
一方で瀧は都心に住むシティボーイ(古)。
その対比のギャップがより生々しさを浮かび上がらせる。

もう一つはその田舎のシーンを丁寧に描いていること。
生々しさが増すとともに、
きちんと描くことで物語に説得力を生み出し伏線を張ることにもなり、
ただの美少女アニメや今風のアニメとの違いを生み出している。
ともすればダレがちなシーンになりがちだが、
先述の「映像の美麗さ」「緩急」や「独特なカット」でそう思わせない。
そしてそれが作品のテンポ…特徴に、といった具合である。



いろんな意見や感情がたくさん飛び交った『君の名は。』。
予算の少なさ、動画枚数の少なさをカバーし、なおかつ新海誠という才能を前面に押し出すことに成功した
両立を見事に生んだ映画。
そしてそれは「10代を楽しませる」というコンセプトだったために賛否両輪となった、
とにもかくにも話題性のある作品だった、というところかな
まとめますと。

あと、ヒットの大きな理由のもう一つは「アニメが市民権を得たこと」だと思う。
その昔、筆者が10代だった90年代まではアニメは「モテないオタクたちの持ち物」だった。
しかし2000年代に入って『電車男』など秋葉原のフィーチャーがあると
一気にアニメが「オタクではない層」に拡散。
大の大人はもとよりオタクでもなんでもない一般層や芸能人も「アニメ好き」を隠さなくなるように。
いまや『君の名は。』の主人公である瀧と三葉の声を担当した
神木隆之介と上白石萌音という美男美女が揃って「アニメが好き」とか言っちゃったりしているのである。

だいたいにしてジブリ作品としてみんなが知るところとなった「ナウシカ」も「ラピュタ」も「トトロ」も
80年代の公開当時は赤字だった。
その状況がようやく変わったのが「魔女の宅急便」からだった。

オタクではない層にアニメ好きが広まっていき、大の大人や一般層がアニメを観ることが
なんらは恥ずかしいことではない普通になってしまった今現在の2010年代半ばこの状況に
たくさんの人の心にヒットする作品が投下された。
アニメを観る人の数が昔と比べて圧倒的に違う。
しかもジブリ作品は考えさせられる部分や謎めいた部分があるが、
『君の名は。』はいちいち難しいことを考えなくてもいい。
だから大ヒットになった。

「なんだ、ヒットの理由ってそんなことかよ」と思われそうだがたぶんそんなとこだと思います。
地味に。

今現在はジブリ作品の興行収入をすべて越えて海外の映画賞も受賞。
世界各国の映画館で上映が開始されているわけですが、
本国日本においていま自分の興味は
「映画館にすら足を運ばなかった人が『君の名は。』を観てどう反応するか」です。
地上波放送を楽しみにしています。

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怪作にして快作 ~映画「シン・ゴジラ」を観た~

2016.08.13.Sat.22:20
観ました。
メンズデ―の割引で。
久しぶりのゴジラの映画作品であり、庵野秀明監督作品であるということ。
そして「早くエヴァの続編をつくれ」などと言われたりなど、いろんなものが相まって
不覚にも話題になってしまった作品であった。
自分もそういった評判や周りの人気ぶりに軽率に心動かされ、劇場に足を運んだのでありました。

しかし内容は期待通りの面白さ!
観たままの興奮とその勢いそのままにPCを目の前に臨んでみた次第。
映画作品としての感想と評価と、『シン・ゴジラ』の考察の
大きく二つに分けた内容となっております。

それでは以下







IMG_9073.jpg








物語は東京湾内での一艘のボート探索から始まる。平成明朝体W9のテロップ付きで。
人気のない船内にはきちんと揃えられた靴と意味深な折り鶴がひとつ、ちょこんと置かれていた。
海上保安庁の隊員が「異常なし」とみるや、突如爆音とともに海上に波が立ち、船が揺れ動く。

アクアラインはトンネルに亀裂が入り海水が侵入したため封鎖。
首相官邸にもこの事故の一報が入る。
会議室に向かうのは内閣官房副長官・矢口(長谷川博己)と秘書官の志村(高良健吾)。
その後も続々と首相および閣僚たちが官邸に集まる。
だが会議で行われるのは"予定調和の"「災害安全対策の協議」だった…。

最初の20~30分ほどは「おじさんたちによる会議」が延々と続いていく。
会議の直前、矢口は事故の原因と思わしき「海中から伸びた巨大な触手」をとらえたネット動画を発見する。
矢口は二度、「この事故は巨大生物によるもの」と提言するが、いずれも却下。
エリート政治家の内閣総理大臣補佐官・赤坂(竹野内豊)に「会議をかき回すな」「総理レクは結論ありきの既定路線」と諭される。
そのあいだに巨大な触手とおもわれるものが海中を東京都心に向けて移動。姿は変わっているようにも見える。
恐怖が徐々に近づいていく。
事故と未確認生物発見の現場の緊迫感と、官邸での間延びしたような会議の倦怠感との対比が印象的。
災害対策会議や政府の会見…お上と現場との肌感覚のアンマッチなど、おそらくこれが現実世界で
"実際に起こっているそのもの”であると思わせるに充分足るシーンだった。

映画のパンフレットには「3.11の時の資料が膨大にあったので読み込みました」
「脚本の時系列に沿って、その省庁では何をするか、その時大臣はどこに待機するか、劇中の会議中の情報の伝達の仕方は正しいか、各大臣の所感に違和感はないか、などを確認した」とある。
庵野は徹底して「リアル」を映画に盛り込んだというのが良くわかる。
そしてそのリアルの追求はキャスティングにも現れている。

物語の主役級となる人物は先の三人のイケメンであるが、
首相や官房長官以外の閣僚、都の政治家たちは現実の誰かを思わせる風貌ばかりだ。
内閣総理大臣は大杉連、官房長官は柄本明などネームバリューがあり「見たことのある顔」の役者がそれぞれ好演している。
(柄本明の眼鏡のかけ方…!)
しかしほかの顔ぶれを見ると、内閣府特命担当大臣は甘○元大臣に似てるし、総務大臣の名前は河野。見た目も某河野さんぽい。
東京都知事は前の前に職務についていたいのせさんだし、臨時外務大臣はタモガミにもほどがあるだろうといった具合のそっくりさんぶりだ。
これは映画の中の「お笑い」の部分でもあるが、それと同時にやはり
観る人に"リアル"を与えたかったということだろう。
防衛大臣は女性(余貴美子)で、そっくりさんではないがどうしてもタイムリーなあの方の顔が思い浮かぶ。
スタッフロールにも名を連ねていたし。
強烈な目力を感じさせるくっきりと引いたアイラインが、いかにも「女性政治家」を彷彿とさせる。

学者たちは「あんな大きな生物は自重に耐えられず陸上には上がれない」と話すが、
巨大生物はあっさりと上陸。
我々の前に見せたその姿は、頭部は深海魚の「ラブカ」を思わせ、体は四足歩行の両生類のような、何とも異様な造形だった。

巨大生物は蒲田を通り品川方面へ。
ボートを車を跳ね飛ばし、マンションを薙ぎ倒し、東京の街を突き進む。
閣僚はこの危機にどう対応するか、巨大生物のせん滅か捕獲か、あるいは追い返すか。
せん滅となれば市街地での武力攻撃を認めなければならない。
周りの閣僚たちにアドバイスされながら災害対策を打った総理大臣は
ここでも周りの閣僚たちにアドバイスされ、またしても頼りなく決定を下す。
「災害緊急事態の宣言」
このシーンはいずれの閣僚にも、映画を観ている自分たちに問いかけられ、判断を要求されていうような錯覚に陥る。
まるで自分が総理大臣となり今まさに重要な決定を下さねばならなくなったかのように。

自衛隊が「ダバ作戦」と称した対ゴジラせん滅作戦を展開したシーン。
ここが第二の大きな「リアル」だ。
自衛隊保有の戦車や戦闘機を使用した軍事作戦さながらの戦闘シーンには迫力がある。
第一波、第二波と徐々に相手を叩いていくこの作戦は庵野自身が考えたものなのだが、
実際に作戦内容を確認した防衛省がその綿密さに驚いたのだとか。
兵器の使用や作戦の裏付けに防衛省が協力していたそうだが、
"本当に戦闘が起きたときはこんなふうになる"と思わせる場面であり、
リアルの追求はここでも貫かれていた。

自衛隊の勢力を集結させてもゴジラに歯が立たなかった。
多摩川を超え再び東京に上陸したゴジラは目黒までやってくる。
遂に米軍が攻撃を始める。
同時に対策本部の首都圏からの移動および閣僚以下人員の避難も開始。
爆撃機から地中貫通型爆弾が投下され、ゴジラに命中。
背中をえぐって爆発し、ダメージを与えると歓声が上がった。しかし
ゴジラの背中が赤紫に変わり、口が大きく開く。そして…

ゴジラの口から炎が放射され、東京の街並みは火の海と化した。
ビルが紫色の熱線で焼かれ切り倒され廃墟と化した都心の風景。

おそらく東京で生まれ育ったあるいは東京に何らかの思い入れがある人は
あの破壊されていく東京の街並みや逃げ惑う人々を観て何か心に来るものもあるのだろうが、
地方の田舎育ちの田舎モンの目には「あー、ぶっ壊されてんなー」と思うだけだった。
官邸前で張っていた記者が「ここでも地方は後回しなんですね」と言っていたが
それは観ている自分も別の意味でそう思っていた。

トップを失った日本は緊急に内閣を組織。
海外周遊中だった里見農水大臣(平泉成)が総理大臣に任命。
矢口は対策本部の副部長、赤坂は官房長官代理に就任。
新体制でゴジラの解明とせん滅に向けて走り出した。

そんななか米軍がゴジラ対処のために熱核攻撃の使用を検討していることを
米国特使カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)から知らされる。
ゴジラの活動開始と、熱核攻撃開始までのタイムリミットが近づく。
そしてついに血液凝固剤を投与してゴジラを倒す方法とその実行の目途が立った。
せん滅作戦名は「ヤシオリ作戦」。

隊員とともに現場へと赴く矢口。
作戦決行。
まずゴジラにミサイルで攻撃を開始、熱戦を吐くだけ吐かせる。
動きが止まったところで足を爆弾を乗せた新幹線で攻撃、体を倒す。
ポンプ車が集結し口の中から凝固剤を投与するもゴジラが目覚めて失敗に終わる。
だがすぐさま第二波の攻撃を開始。
爆弾をのせた電車がまたも足元を狙い着弾。同時に近くのビルも破壊してゴジラに浴びせる。
転倒するゴジラ。
ポンプ車出動。再び凝固剤の経口投与の開始。
全てが充填し終え、ゴジラが目覚め、立ち上がる。
万事休すか…その瞬間、ゴジラは凍り付いたように静止した。
凝固剤が効いたのだ。
これによって、ヤシオリ作戦は完了。ゴジラのせん滅に成功した。

物語の最後の最後、固まったゴジラの尻尾の先端がアップになって終わるけど、
あれはホラー映画やパニック映画によくあるラストと同じじゃないの?
「実はこれで悪夢は終わりじゃない」っていう最後のオチ。
別に「庵野、やりやがった!」ていうマンセー的なものではない気がした。

物語は大きく、完全体のゴジラが東京を火の海にしたシーンのその前後に分けられる。
閣僚各位と自衛隊がゴジラに対して対策を講じていった前半と、
都心が壊滅したそのあとに残された人々でゴジラせん滅へと動く後半である。
おっさんおばさん、あるいはおじいちゃんがいなくなって、
矢口や赤坂のような若手が目の前にある誰も直面したことのない大きな問題に立ち向かっていく姿は、
「未来は若い君たちが創っていくんだよ」と言われているかのようである。

物語"後半"。
矢口はゴジラの対策本部・「巨大不明生物災害対策本部」(巨災対)の実質的な統括を任されることとなる。

ヤシオリ作戦の陣頭指揮を取るために現地へ赴くことに決めた矢口に、
同僚である政調副会長の泉は「10年後に総理大臣になるんじゃないのか?」と訊く。
それに矢口はこう答える「10年後にこの国が残っていることが大事さ」

ゆくゆくは自分も政治家としてその高みに立ち、
閣僚として名を連ね、果ては総理としてこの国を良くしていく。
出世には興味がないという素振りは見せていたが、
それまでの矢口の頭の中にはそういった思いが何度も繰り返されていたはずだ。
しかし政治は、特に閣内は予定調和だらけであることは何遍も観てきて知っている。
そして上には、自分のすぐ近くには赤坂という男がいる。
彼が官房長官代理となったのは実は実力者であった里見元農水大臣の采配だったという。
下からの人望は厚く、上からの信頼は厚い。
赤坂は次の総選挙に立候補しその足場を築いていこうという。
その男を目の前にして矢口はいつしかこう思うようになった。
「自分は総理大臣になれないのではないか?」
そして「総理大臣になることで、果たして国を良くすることができるのか?」

巨災対は今までになく、部員ひとりひとりの結束が強くなっている。
それは全員がゴジラの解明と、それを行うことでこの国の危機を脱することができるという強い希望が見えたからだ。
みんなの思いを汲み上げ、彼らをまとめあげる存在として動き回り、目的を形にしていく。
そしてその目的達成の暁は、日本という国を危機から救うこととなる。
活動を通じて矢口はひとつの思いを抱いた。
「自分の仕事はこれかもしれない」

ゴジラが一度海に帰ったのち、破壊された街を大臣以下が現地視察したシーンがあった。
チラッと見ただけで「次は報道対応だ」とぞろぞろと引き上げる一団を尻目に、
矢口は廃墟の街並みをひとり呆然と立ち尽くし静かに手を合わせた。
これは矢口が国民と同じ目線に立っているということの表れだ。
このとき本人は気付いていなかったが、チームを率いて現場での対応に当たるというのが
実は彼の能力を一番輝かせる職務だったのだ。
対策本部を治める経験を通じて矢口は自分の才能に気付き、やるべきことを見つけた。
自分が日本のためにすべきことはなんなのかを。

立ち尽くしたゴジラを眺めながら矢口のラストの言葉「今はまだ辞めない。これで終息してないからな」には
様々な思いや感情が詰め込まれている。
「瓦礫の山々」「放射能の除去」「東京からの避難民360万人の帰還」「今後の国際社会との関わり」
「復興」…
やらなければいけないことが山積している。
まさに我々が直面して生きている"未来"ではないか。
立ち向かったゴジラは"虚構"であるが、作中で描かれていたのは紛れもない"現実"そのものだった。
最初から最後まで"リアル"は貫かれていた。
最後の言葉は矢口の静かな決意であり、
最大の危機を脱したとしてもその先の未来があるということであり、
またその未来は君たちの仕事であるという
スクリーンの外を飛び出しての我々に向けてのメッセージであった。


映画を観終えると「『シン・ゴジラ』って災害対策モノなの?」っていう意見をネットで見たのだが、
「はい!そうです!」と自身を持って言える作品だったことがわかる。
"『シン・ゴジラ』は災害対策モノです"!
単なる「怪獣映画」という枠だけではとてもじゃないがくくりきれない。
これは強く推していきたい。

そしてエヴァ同様、『シン・ゴジラ』もまた庵野の独壇場、真骨頂であったということ。
救いようのない現実と人間の裏にあるドロドロとした内面…
見たくないものを目の前に突き付ける、臓物を見せつけるという点は
『シン・ゴジラ』においても発揮されていた。
またその映画の見せ方は、ゴジラを制作した先人たちへの敬意を表したまさに初代ゴジラそのものだ。
全く新しいゴジラ作品でありながら、"ゴジラ回帰主義" "ゴジラ原理主義"を貫いた作品であることは事実であり、
それを同時に行ってしまった庵野の手腕にも脱帽しきりである。
新時代のゴジラ、『シン・ゴジラ』である。

本作品における"臓物"とは、"描かれた日本のリアル"にほかならない。
庵野が言った「ゴジラが存在する空想科学の世界は夢や願望だけなく、現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります」
の言葉通り、ゴジラは"日本そのもの"を映し出していた"鏡"であった。
確かにいまの日本において、想像を絶する災難が身に降りかかったとしても、
やれ会議に次ぐ会議、お上の判断を仰ぐやら、法律上あっちを立てればこっちが立たないなど
なんとも会議、書類、クレームの配慮とそんなことを考えながら動いていくしかないのが現実だろう。
そして政府の判断や対応が、いったい誰の発案で、誰が責任者なのかという主体性の無さも特徴だ。
そりゃ志村に「こんなことやってる場合かよ」と言われるし、カヨコには「あなたの国は誰が決めるの?」と言われるわけだ。
あの前半の政府のゴジラへの対応がまさに今のニッポン。
ここは"第三のリアル"といってもいいかもしれない。

それを言うと、あの総理大臣が危機管理センターに来た時や、
都知事が都の危機管理センターに来た時の「全員起立」も
なんだか"危機のときでさえもいちいち規律を守る日本"を表したシーンのような気がする。
我々日本人にはあまり変だとは思わないシーンかもしれない。
『シン・ゴジラ』、庵野が監督したということもあり、世界100か国以上に配給されるとのことですが
"ここがヘンだよ日本人"みたいな感じで奇異の目で
なんとも日本を象徴するかのようないち場面として、海外のお客さんからは見られるのはないかと思う。

映画を観た人の意見では「早口のシーンをどうにかしてほしかった」という旨のものがあったが、
あれは早口で良かった思う。
話している内容がそもそも専門用語のオンパレードであり、あれに時間を使って丁寧に説明を加えたところで
見ている人の大半は「???」のままだと思うからだ。
それだったらあえて早回しのように送ったほうがいい、というのが庵野の考えではないか。
映画の中で重要なのはそこではないし、公開は夏休みで"怪獣映画"ということで子供も観に来る。
観る人を退屈させるのは良くないと。
エヴァの「Air」でも休憩タイムを作った庵野なので、そういう采配だったということは充分に考えられる。
これが製作費の関係で…ということではなくて"あえてそうした"ということだと思いたい(笑)

先に「未来は若い君たちが創っていくんだよ」と言ってしまっていたが、
かと言って前半のなすこと全てがいい方向に向かなかったおじさんたちが決して情けなかったというわけではない。
劇中では失敗ばかりが積み重なったが、"本気"だったはずだ。
本気でこの危機に対面し、国のトップとしてその職務を全うしていた。
総理大臣・大河内(大杉連)の顔は、みるみるうちに覚悟をきめたまさにリーダーとしての顔になっていった。
彼らとて手を抜いてゴジラの対応に当たっていたわけじゃない…とフォローをしておこう(笑)

本編において
ラブロマンスなし。
登場キャラクターの過去も振り返ることなし。
ありえないようなお涙頂戴のセリフもなし。
それが無くてもおもしろい。
「これをやればウケるんでしょ?」というヒット映画の法則をなかば無視した作り方は、
去年、2015年に話題と人気をさらった『マッドマックス ~怒りのデスロード~』と同様であるのもとても興味深い。

しかも『シン・ゴジラ』は公開前の映画業界内では評判が芳しくなかったのだそうだ。







シン・ゴジラは映画関係者から不評!?そこには邦画不振の原因が詰まっている…?

まあ今までのヒットの法則に則っていないのだから評判が良くないのも当然か(笑)
興業的には結果オーライということになりそうなわけだけど、

「ゴジラ FINAL WARS」(04)以来12年ぶりに東宝が製作した最新作「シン・ゴジラ」が、7月29日より全国441スクリーンで公開され、土日2日間で動員41万2302人、興収6億2461万0700円を記録する好スタートを切った。 -映画.com 映画ランキング


※順調なようです

『シン・ゴジラ』が公開2週目にして累計動員145万1,404人、累計興行収入21億5,063万5,500円を記録、早くも興収21億円を突破し、2週連続で1位をキープした。 -『シン・ゴジラ』がV2!快進撃止まらず興収20億円突破! /シネマトゥデイ



やりたいことやって回収するものを回収してるわけだから、
予定調和の映画よりも俄然チャレンジングな方向で攻めた『シン・ゴジラ』のほうが個人的には好きだし支持したい。

あとは『ニッポン(現実)VSゴジラ(虚構)』のキャッチコピーだ。
作品の内容を端的に表し、かつ観る人に「観に行こうかな」と思わせるのがキャッチコピーの役目。
これまでのやり方で巨大不明生物という新たに発生した問題と立ち向かい、
新しいやり方で新たに発生した問題に立ち向かう。
まさに、ニッポン対ゴジラ。
ここまで物語の内容を短く明確に表し、かつ文字通り"キャッチ―"に仕上げたキャッチコピーを久々に目にした気がした。
『シン・ゴジラ』は今年の映画界の話題をさらうだろうが、
キャッチコピーも今年の大賞(?)に確定でいいと思う。

映画業界的にははっきり言って「奇」なるものであったわけで、まさしく「怪作」だ。
しかしその前評判(映画業界の評判も世間一般の我々の評判も含め)を覆して
内容は素晴らしい、興業的にも成功を収めたとなれば、これを「快作」と言わずして何と言おうか。

怪作にして快作。
『シン・ゴジラ』はそう呼ぶにふさわしい。


ここまでが映画作品としての感想と評価。
ここからが『シン・ゴジラ』の考察。

映画の内容についてはもうさんざん言ってしまったので、
ここでは"『シン・ゴジラ』に登場するゴジラとはなんだったのか"ということを話したい。

放射能を食い物にして生きている巨大生物かと思われたが
食べているというより熱核エネルギー変換を自身の手にしてしまっている生き物だということ。
また映画の内容からするにゴジラの正体は、
実は冒頭のボートの所有者はゴジラ研究家の牧悟郎氏のもので、
その牧氏がゴジラの正体であるのが濃厚ということ。
本編ではそれ以外にゴジラの正体はほとんど明かされることなく、牧悟郎の正体もよくわからないままだった。

あと分かっていることと言えば異様な成長スピードの変態を繰り返す生き物ということか。
第一形態から第四形態まであり、触手のような尻尾のような形の形態から両生類、次いで肉食恐竜のような形をとり、
第四形態は我々が良く知る「ゴジラ」の形の形態となる。

このゴジラを見てふと気になったことがある。
今回のゴジラは全編フルCGということだ。
スタッフロールに「野村萬斎」と出ていたので、
ゴジラの歩行や行動に関してはモーションキャプチャで実際の人間の動きを取り入れたということだろう。
東京を二足歩行で進撃するときの内また気味のすり足に「能」が垣間見えたので、これには納得した。

しかし納得できなかったのが「尻尾の動き」である。
今回のゴジラはいつになく尻尾の先を上に向けて、なおかつ尻尾自体がヘビのようにウネウネと動いていたのだ。
犬や猫のような軽くふわふわとしたものならまだしも、あの固く太く、重量級の尻尾である。
「重力」と「空気抵抗」というものがあることを知らんのか!
と思わずフルCGであることをいいことにやってしまったような動きを観ていてそんなことを思ってしまった。
これまでのゴジラの尻尾の動きは、痛みや怒りの感情をあらわにした際に地面にバシバシ叩きつけたり、
攻撃する際に遠心力を使って勢いよく相手に殴りつける"武器"として使うといった、
動くことはあってもそれは直線的で、「ゴジラ本体の意識下」にあった動きだった。

だが今回の尻尾は違う。
「ゴジラ本体の意識下」ではなく、まるでゴジラ本体とは別の、「自分の意思で動いている」かのようだった。
そこで一つ思いついた。
「尻尾には、本体とは別にもう一つの"脳"が存在する…?」

この考えには裏付けがある。
93年作「ゴジラVSメカゴジラ」において、ゴジラには腰部分に「第二の脳」が存在するという設定が
東宝によって新たに付け加えられることとなったからだ。
本編でメカゴジラはゴジラの腰(第二の脳)にショックアンカーを打ち込み、電流でゴジラの歩行を停止させるという攻撃を行っている。
(そして失敗している)

ならば尻尾部分に脳があるという設定があってもおかしくないはずだ。
尻尾が本体とは別に独自に動き、先端から熱線を吐けるのも、脳がありそれが働いていたからとすれば
これは無理な話ではない。
あのラストシーン、尻尾部分の先端がズームアップされるという超意味深な終わり方をした時に
やっぱりそういうことか?と思ったりした。

が、そんなことを思っていた明けて次の日、とんでもないことに気付いてしまった。
「あの尻尾って、第一形態の触手そっくりだよなあ…」
このときふと思った。
もしかしてあの触手は「尻尾そのものだった」のではないか?と。
ゴジラ第一形態の登場は海中から触手(尻尾?)のみが顔を出してウネウネ動くというもので、
海中でどうなっているかわからなかった。
だが第二形態、第三形態と、徐々に"生物の進化の過程"を辿っているとしたら…?

この"進化を辿る"という考えはロックバンド・オワリカラのタカハシヒョウリさんのブログから拝借したものなのでそちらを参照頂きたい
これよりシン・ゴジラ超ネタバレ10000字の儀を執り行う! ※こちらも素晴らしい考察!)

この考え方に基づくと、あの第一形態の触手は"どこかから生えている"というものではなく、
イモ虫…ワームのような形の生き物ではないかと。
ワームが自分の体の一部を海上にのぞかせて動いていたと。
そしてつまりそうするとワームは触手であり、触手は尻尾であるということになる。
尻尾はその後の形態でも存在し続け、第四形態でも存在している。
重ねて言うが、第一形態のワームは第二~第四形態の尻尾そっくりだ。
つまりこれは、
ゴジラの"本体"とは"第二の脳"が存在するあの「尻尾」であるかもしれないということなのだ…!

どういうことか。
第二形態では四足歩行の水陸両用の生物となったが、
ワームの純粋な…蝶の幼虫からサナギに変わり、成虫となるような完全変態ではなく、
あれは実は第一形態のワームの片一方からニョキニョキと"生えてきた"ものということだ。
つまりは第二形態以後のゴジラの姿かたちは、あの頭も首も、体も四肢も、
すべては「本体」が海中を進み、陸上に上がり、歩行を進め、
破壊行為をうまく行うための"手段"だったのである。

常識的にはにわかに考えにくいことである。
だがそれは我々の思い込みがそれを阻害しているだけだ。
尻尾とは"本体"から"生えている"付属物だ、という認識が、だ。
しかし進化をし続けているのは誰しおうあの「ゴジラ」である。
人智を超えた"完全生物"だ。
尻尾(と思われるもの)が"本体"であれば、その逆に四肢や体が"付属物"になることは容易に想像できるはずだ。
我々の常識を超えるなどゴジラにとってはたやすいことなのだ。

パンフレットはゴジラ本体(と思われるもの)と尻尾(と思われるもの)の先端が表紙になっているが、
見ようによっては尻尾の先端には白の眼球に黒の水晶体の「目」が付いているようにも見えなくもないような…

他の方のブログ等ではあれが新たな人型生物か、ゴジラの子供か?といった考察もなされているらしい。
確かに、二回目観たら、一度ゴジラの装甲(皮膚)の一部が外れかかるシーンあるし、
ラストシーンの尻尾の先端が糸がほつれたような感じになってて、
その中からエイリアンみたいなのが出かかってたから
ゴジラ第五形態か、それとも新たなゴジラ誕生か?ってのはわかる。

もしこれが正解だとして、その何かがおそらく今から生まれるのではなく、
生まれそうになって出かかってたところをあと一歩のところで固まってしまった、というところじゃないかな
…と思いたいが…相手はゴジラ………

うおおおおおお庵野、そういうことなのか?
あのラストの尻尾のズームとは、
さっきまで「ホラー映画によくあるラスト」程度に思っていたがそうではなったのか!?
実は牧悟郎の意識がまだあの尻尾には組み込まれているということなのか!?
そしてあそこからまた何かが生まれてきてしまうのか?
それとも本体から生えた"付属物"に新たな変態がおきようというのか!?
もしかすると矢口の言った「これで終息したわけじゃない」の言葉には隠された真実があるということなのか?
「凝固剤で固めただけではゴジラを倒したことにならない」ことをすでに知っているとか、
あの巨災対が奮闘するシーンでは語られなかった裏の事実が対策本部の部員には既に共有されていたりするのか!?
ああああああああああああああああああああああ



やめよう。

あやうくまた


となってしまうところだった。

まああくまでここまで言ってきたことは自分のただの考察なので、
これが本当でもなんでもないし。

だが自分は、これがゴジラの存在であったと確信しておく。
そしてあの尻尾の先端から出てきたアレは牧悟郎本人の姿だったと。
それだけにしておこう。

その先は…
もし続編が出るとしてもエヴァのあとになるだろうから、何年先になるか分かったモンじゃない。
だからと言って続編をほかの人に任せることは庵野本人が許さないだろう。
ほかのゴジラシリーズならほかの監督でも撮れるだろうが
『シン・ゴジラ』の続編は庵野にしか撮れない。
そもそも続編が出るかどうかもわからない。

なので、このことは今は考えるのはやめにして、
とりあえずこの衝撃作のみを楽しむことに徹しましょう。
自分はまだ一回しか見ていないので、
また観に行きたい所存である。
それはあれやこれやの確認のためであり、
もしかしたらまた新たな発見がなされるのでないかと思っている。

あと、ゴジラ第二形態が川をさかのぼっていくシーンで
「ジャック&サリー動物病院」の看板が見えた。、
「ジャック&サリー」とはティム・バートン原作のディズニー映画『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』に登場する主役の二人の名前。
『ゴジラ』と『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の関連する事項というと
"昔ながらの特撮技法に最新のデジタル映像技法を取り入れ製作された"くらいしか
思い浮かばないんですが、
なにかこの二つの関連性を知っている人が居たらだれか考察してください。

そして、『シン・ゴジラ』最大の謎はゴジラの正体ではない。それは…





KREVAどこにいた?
※KREVAいた!
「全車撤退!全力走行!!」
KREVAはボスキャラじゃなかった!
本当の謎、シン・ボスキャラはスチャダラパーのANI!

Th2Le.jpg




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※8/13追記
どうやら早口のシーンは、元を辿ると東宝からの要請であった模様。それはそれは。
しかし庵野も「できますよ」って言っちゃうというまあなんとやら(笑)

普通で言えば3時間分の脚本になって、いよいよ本当に監督をお願いする時に、あらためてぜひやってください、でも2時間にはおさめてくださいと言ったら、わかりました、撮れますよ、なぜなら早口で言わせるから、と答えました。たぶん、1.5倍くらいの速度でしゃべっていて、だから入ったんでしょうね。 - 東宝はなぜ『#シン・ゴジラ』を庵野秀明氏に託したか~東宝 取締役映画調整部長・市川南氏インタビュー~(境治) - Y!ニュース

映画 「ちはやふる 下の句」 を観た

2016.05.13.Fri.23:08
観ました。遂に後半。
公開して数日は「大コケ」などと言われた上の句がその後徐々に人気を伸ばし、
下の句公開初日に異例の続編決定が発表され、
主演の広瀬すずも「役を演じるのに思い悩んだ」というその苦労も報われることとなった。
さて下の句、いったい前半からどう繋がりどう展開していくのか。
映画を観てからの勢いですぐさまこの記事を書いてしまった。
それでは感想をば。

(※以下の文章はネタバレを含みます)
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チームの大切さ


下の句を一言で表すと「チーム」である。
はい!満場一致ですね!

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上の句、関東大会では太一の言うとおり「自分たちはチームになっていなかった」のに対し、
今回は前回と打って変わって、端沢高校かるた部は「チーム」として機能していた。
不安定になってしまった千早やまとめ役として焦る太一が足を引っ張ったときには
同じ部の3人がその手を引いた。
部を引っ張るはずだった2人はいつの間にか肉まん、奏、机くんに手を引かれていたのだ。
まさに「チーム」となった端沢高校かるた部はお互い同士を励ましあえるかけがえのない仲間に成長していた。

そんな"手を引かれ"ることとなった千早と太一は苦悩していた。
発端は府中白波会の仲間であり親友であった綿谷新だが、彼もまた
かるたとイコールの存在であった、名人である祖父を亡くし道を彷徨っていた。
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劇中、中心となったのはその3人それぞれが「なぜかるたを続けるのか」に悩み葛藤する姿と、
そこから這い上がり道を開いていく姿である。
3人ごとに悩みの種は違いながら、最終的にたどり着いた答えはまさに「チーム」だった。
ひとりではなく3人だから、仲間だから、かるたを続けられる。
暗く、泥の中に深く沈んだ千早、太一、新が再び同じ仲間としての絆を取り戻していく姿に、
既に強固な絆で繋がった瑞沢高校かるた部のまぶしさが対比されて、
本作のテーマである「チーム」とは何か、が鮮明に現れることとなった。

今回は主人公である3人によりスポットを当てているため長めでゆっくりとしたシーンが多かったが、
作品のテンポは前回同様にその良さはキープ。

相変わらず出番の少ない松田美由紀だが
上の句からの手のひら返しと「ああ、こういう先生か~」と思わず納得してしまうルックスと演技に、
ハマリ役がさらに際立っていた。
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國村隼はもう「然るべき役をやってのけた」という印象しかない。
特に最後の千早とかるたクイーン・若宮詩暢との対決のシーン。
奮闘しながらもかるたを存分に楽しむ姿に感動する新を、横からそっと諭す原田先生。
もし自分があることを続けるのを躊躇している新のような立場であったら、
「続けることの理由は一つじゃなくてもいいんじゃないかな?」なんて背中ごしに言われてしまったら
僕も泣いてしまうだろう。
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その後に変な宗教に勧誘されても入信してしまいそうだし
変な壺を売りつけられても購入してしまいそうである。

そして




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いくらスポンサードされたのだろうとはいえ彼出過ぎじゃないですか?


競技かるたはやっぱりスポーツである


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松岡茉優が演じる孤高のかるたクイーン・若宮詩暢はこう言った。
団体戦のかるたは「かるたやないんやないどすか?」と。
若宮詩暢は子供の頃から師匠もつけずかるた会にも所属せず、たった1人でかるたに取り組んでいた。
それで女子高生にしてかるたクイーンの座についた天才である。
なるほど、彼女にとってチームとして戦う団体戦のかるたなどは本当のかるたではないのかもしれない。

団体戦とは言いながら、1対1を同時に5人で行う"個人戦"でもある。
だが個人戦と違うのは、
目標のために頑張り、そこでお互いに切磋琢磨し信頼しあう関係が生まれることだ。
団体戦には実際に頭脳戦もあり、ある種のチームプレーが存在する。
チームプレーは互いの信頼関係から生まれる。
その信頼関係は、瑞沢高校かるた部を見てほしい、
実は個人戦にも繋がっているのだ。
ここも下の句のテーマでもある「チーム」が伺えるところである。

しかしながら信頼関係は特にチームスポーツでは欠かせないものであり、
その信頼関係がチームプレイを達成せしめるものである。
つまり、競技かるた、さらには団体戦とは良くも悪くも「スポーツ」そのものであると言える。
かるたクイーンの言葉は一理ある。
詩暢とすれば、競技かるた個人戦こそが「本当のかるた」かあるいは、
スポーツではなく「格闘技」なのかもしれない。

そして若宮詩暢役の松岡茉優
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そこはかとなくAV女優感が…なんでもない。


広瀬すずはやっぱりかわいい


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広瀬すずはかわいい。
広瀬すずはかわいい。
事実なので2回言いました。
今回もやっぱりかわいい。
安定の美人ぶりである。
袴姿の広瀬すず、汗のしたたる広瀬すず、
あるひとつのことに苦悩する広瀬すずも何もかも間違いがない。
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たとえ彼女が自分の隣で寝ていて劇中のように毎晩白目を向いていたとしても
広瀬すずなら許せるであろう。

でも




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やっぱりAVじょ…うっっ!ゲフン!ゲフフン!!


ジャイアンとスネ夫、再び。


なんてことだ。
このブログの前々回で上の句について書いたとき、
北央学園競技かるた部の彼ら二人をドラえもんの「ジャイアンとスネ夫」に例えて説明した。
sudou1.png

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このふたり、「ジャイアンとスネ夫」ではなかった。
「"映画版"のジャイアンとスネ夫」だったのだ。

北央学園に出稽古に訪れた千早。
しかし気に迷いのみられる千早は全ての対戦で惨敗を喫する。
そこに怒りを感じた北央学園のエース"ドS"須藤 暁人は、付き人「ヒョロ」に"アレ"を持ってこいと命ずる。
「あ…アレですか!?」とヒョロは戸惑いながらもその"アレ"である分厚いファイルを持ってくる。
ポンと須藤が千早の前に投げたファイルは、北央学園競技かるた部門外不出の対戦校データファイルだったのだ。
お前らが負けて、俺たち東京の高校が他の奴らにナメられたくないからな

な…なんというツンデレ!!…

「他の奴らにナメられたくないんだからなッ////////////////////////////」
吐き捨てて立ち去る須藤。しかし部室を出たその顔は赤らんでいた…
なんていうシチュエーションだったとしても見事にハマりそうである。
そしてこれはまさに「映画版になると急にいい奴になるジャイアン」そのものではないか…!
結局須藤のあとを負うヒョロ a.k.a スネ夫。
図らずして自分の表現は的を得ていたのである。


不完全燃焼?


『はやふる 下の句』は「チーム」をテーマにして作品の後半のストーリーが展開していった。
上の句が部活動にかける高校生の青春物語であったのに対し、
下の句は主人公3人を中心としたかるたを通じた友情の物語であったと言える。
そのせいか、前・後半2作品ということもありどうしても比較してしまうのだが、
下の句は上の句に比べ、「間延びしてしまった」印象がある。

それは下の句が「友情」を描いた作品であり、どうしてもキャラクターの心情にスポットが当たってしまうからだ。
テンポの良さはある程度保たれていたとはいえ、
登場人物が苦悩するシリアスなシーンも盛り込まねばならなかった。
また、上の句は下の句にも登場するキャラクターを登場させねばならなかったがゆえに
「矢継ぎ早」に、しかも「無理のない」ように物語をうまく展開するために"テンポよく"を念頭に置いていたこともあると思う。
その「テンポ」が作品の良さに拍車をかけていたために、
下の句の「テンポの良さ」に陰りが見えていたことは否めない。

もうひとつ感じた印象は、上の句よりも「作品全体がぼやけている」のである。
これには諸々の原因がある。
まずひとつ。主人公3人は互いに親友であり、仲間であり、恋愛を意識する関係である。
下の句は3人の「友情」を描いているはずだが、これが「恋愛」を描いているのか、
それを含んでいるのかがイマイチはっきりしなかった。
作品を見れば「友情」と「恋愛」のどちらかで言うなら「友情」であることは確かなのだが、
設定として主人公は3人「恋愛を意識する関係」があるがゆえに、そこがどうしても引っかかった。

二つ目に下の句が「友情」という人間の内面的な部分を描いたことと、
「深く沈んだ泥の中から這い上がる」というカタルシスに焦点を当てていることだ。
人間の内面を描いた作品はキャラクターの心情がどう変化したかを最優先して描くがゆえに、
どうしても精神的な世界を重視し、自分の外の現実世界である"外面"での出来事は
二の次になってしまう傾向がある。
具体的に言うと、ラストの千早と詩暢の対決シーンでは「千早の心情」を中心に描いているので、
実際のかるたの内容はあまり描かれなかった。
千早が負けたそのあとの大会については誰が優勝したとか、
同じ個人戦三回戦で当たっていた太一と"ドS"須藤との対決はどっちが勝ったかも描かれていない。
「ほかの試合どうなったの?大会はの結果は?」というところを説明していないのである。
そいうところで、モヤモヤとしたものが残ってしまった。
これはもちろん下の句が「キャラクターの内面」「カタルシス」を描いた作品であるからで、
何よりも「千早の心情」を最優先にしているので、彼女の心が救われれば
あとは誰が勝ったか・優勝したかなど、現実世界がどうなろうと構わないのである。
そういう作品として見ればこれで何の不備もないし、話は完結しているからとやかく言うことではない。

ただ…どうしても気になってしまうのよ笑 こんこんと言い連ねてしまった笑 
自分の性格的な部分もある。
別に内面は全然描いてもいいんだけど、話は最後まで描いて終わらせてほしかった、というところ笑

この際なんでもっと言ってしまうと、別に詩暢がいなくても進んだ話である。
「下の句は主人公3人を中心としたかるたを通じた友情の物語」と言ったが、
カタルシスの面で言うと、主人公の中で一番苦悩していたのは新だ。
乱暴なことを言うと、下の句は新の物語である。
彼ら3人の友情と新のカタルシスを描くのに、何も詩暢は必ずしも必要なキャラクターではなかった。
逆に彼女がいなければもっと話はわかりやすく、もっとまとまったものになり、しかも早く終わっただろう。

あとは演技か。
太一役の野村周平くんはシリアスなシーンが弱いんだなと笑
それと物語を3人の友情の回復とカタルシスに向かわせるために、
よくある「映画でしか出てこないようなセリフを簡単に吐いてしまう」シーンが多々見られた。
そこも気になって物語にのめり込めなかった部分で、「作品全体がぼやけ」た一因になっている。

正直な感想として、下の句で完結のはずなのに、いくぶん消化不良な気がしたのは否めなかった。

だがここで朗報だ。
記事冒頭で言ったが、ちはやふるの続編の制作が決定したのだ。
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続編は今回と同じような前後編2作になるのだろうか。
いやいやそれでは間延びし過ぎる。
作るなら前後編なしの一本だ。

過去二作、
上の句は言うなれば太一の物語だ。
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物語冒頭に最初に登場したキャラクターである時点で、"上の句の主人公"は太一であった。
ちはやふる真の(?)主人公である千早は「重要なキーマン」という立ち位置であり、
このキーマンを軸として彼の心情が動いた、紛れもない太一の物語である。

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下の句は先述したように新の物語である。
一番苦しんで彷徨っていたのは新であり、3人の友情の回復で一番解き放たれたのは彼と言っていい。

太一、新と来れば、次に来るのは…千早である。
下の句ではともに名人の座を争うのであろう太一と新が、
かるたクイーンとして登ってきた千早のシーンがラストで流れた。
つまり次はその話になる。

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千早とは何者か。一世一代のかるたバカである。
そのかるたバカは周りを巻き込みながらも結成したかるた部を関東大会優勝まで導いた。
「なぜかるたをするのか」に悩みながらも、それはまた己と、己よりも強い相手と対峙することで
その答えを見出していった。
まるでドラゴンボールの孫悟空だ。
かるたが好きでたまらない。さらなる高みを目指したい。強くなりたい。
そして下の句では新の誘導役と千早の引き立て役で終わった若宮詩暢が
次回こそ本領を発揮するであろう。
次作に描かれるのはなにか、
それはまさに「競技かるた」そのものになるだろう。
やっと、やっと「千早の物語」である。

下の句で停滞したあれこれは、不完全燃焼はこのためにあったんですね。
若宮詩暢の下の句での存在感の薄さは続編のためであったということでいいんですね。
そうなんですよね、そうと言ってください小泉監督!!
マジで期待してますからお願いしますよ監督ぅううううう!!


エンディングはPerfume「FLASH」


長い長い前項をお読みいただきありがとうございました!
これで最後です!あともう一息、頑張ってください!
同じ項目タイトルを前回見た?デジャブ?そんなことあるけどありません!
エンディングテーマは泣く子も黙るPerfumeの「FLASH」である。
しかも今回のエンディングはFULLバージョンだ!ヒャッハアァァァーーーッ



"恋ともぜんぜん 違うエモーション"
これはまさに今回の親友でありライバルである主人公3人が共有する友情のことのように聞こえる。
さすが作品に目を通して曲をつくるヤスタカスタイル、
ここでも面目躍如である。

やはり映画との親和性は素晴らしかったらしく、
Perfumeとしてはここ最近で一番の話題沸騰曲となっている。
ここでも気になるのが、次回もPerfumeを起用するのかどうかだ。
このまま続編の主題歌も担当させていただきたいものである。


以上が下の句の感想と考察。
まだ見ていない人は是非、
上の句と下の句セットで、
モヤモヤとしながら続編を心待ちにしてみては?笑

映画 「ちはやふる 上の句」 を観た

2016.04.28.Thu.23:59
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ちはやふる 上の句。見てきました。
Perfumeさんが映画主題歌を担当しているので「うーんどうするかな」と思っていたところ
SNSで絶賛されてたのを見て、観てみることにしました。
そうしたらこれが予想外に面白い!
あまり期待をせずに臨んだのもあるけど、逆にそれがよかったのかもしれない。
もしまだ見ていない人がいれば、あんまり期待せずに観に行くのがいいだろう。
なんだったら割引サービスの日に観に行ったっていい。
楽しんで帰って来れるはず。

では、感想をば。
※以下の内容はネタバレと他の作品を交えた内容を含みます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

映画を見終えて浮かんだ言葉は「絶妙」の二文字である。
この"絶妙"さこそが「ちはやふる」という映画を良作たらしめる元となっていると確信した。
では一体なにがどう"絶妙"だったのか。

絶妙のキャスティング

まずキャスティングである。
漫画が原作の映画となると、どうしても原作キャラと実際に演じる俳優とのマッチングが重要になってくる。
このキャスティングをひとつ間違うと「原作とキャラが合っていない」「イメージと全然違う」などと
制作発表の時点でバッシングの嵐になってしまうことがよくあるのは周知のとおりだろう。
この「ちはやふる」も制作発表の際にミスマッチを指摘されたらしいが、
実際に本編を観てみるとそれを感じることはほとんどなかった。
なぜか。
それはビジュアルではなく「役にどの俳優の演技が合うか」を優先している点だ。
このキャスティングの"妙"が「ちはやふる」を語る上で大きなポイントとなっている。

まず主役の三人。
広瀬すずが演じる綾瀬千早は「美人」なのに「かるたバカ」であるという設定を上手く使っている。
今回筆者は初めて広瀬すずの出演作を見たのだが、この子は確かに紛れもなく美人だ。
その「紛れもなく美人」の役者が劇中でひとつのことにのめり込み、白目を向いて倒れる演技をするから
「美人なのにかるたバカ」という役に説得力が出る。
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見た目でああだこうだと言われてたみたいだが、
映画を観ている最中に違和感を感じることはなかった。
そしてその演技は監督にも絶賛されていたほどだ。
「ちはやふる」初日 「本物の女優が来た」と監督絶賛に大照れ

綾瀬千早の幼馴染みの真島太一を演じる野村周平も、
千早に振り回され、運のなさに付きまとわれる三枚目をよく演じていたと思う。
綿谷新役の真剣佑はまだ本編(上の句)にあまり出てないからまだわからないかな…。
ちはやふるのキャスト「野村周平」

ちはやふるのキャスト「真剣佑」
それでも見ての通り二人とも小顔で、ある程度の背丈もあるので、ここにおいて
「千早は背が低い」という設定をクリアしている。

「役にどの俳優の演技が合うか」を優先しているのは脇役も同じだ。
しかもそれにプラスして、ビジュアル面でのマッチングがさらに絶妙になる。
"肉まん"西田優征役の矢本悠馬はあの顔であのノリで、
大人計画に所属てしていることもあろう、「お調子者」を演じきっていた。
ちはやふるのキャスト「矢本悠馬」

"机くん"駒野勉役の森永悠希もキャリアの長さを生かして他の作品では演じたことなかった「オタク役」を
好演していた。
さらに大江奏役を演じる上白石萌音は演技もさることながら、そのビジュアルが"絶妙"。
「実家は呉服屋」「古典好き」という設定にあの"いかにも和風の日本人顔"を持ってきたのが素晴らしい。
また短い髪を後ろで二つにまとめたらまさしく「オタク」な風貌になったことも役との相性に拍車をかける。
上白石萌音は周防正行監督作『舞妓はレディ』の主演を務めたこともあり、納得の配役である。

そのほか北央学園競技かるた部のエース・須藤暁人役の清水尋也もまた絶妙だ。
須藤暁人の性格は「ドS」なのだが、清水尋也の顔立ちと目つき、風貌がいかにも
「ドS」を体現していて見事。
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ここも千早と同じで「役の設定をマッチングさせる」ことで観る人を納得させてしまう好例だ。

細かいところで言うと「これは!」と思ったのが子役である。
劇中、主役の三人の子供時代がの回想シーンで出てくるのだが、
その子供時代の三人がまさに「この三人の子供の時ってこんな感じだったんだろうな」と
思わず感じてしまうほどの配役だったのだ。
だいたいこういう回想シーンは、今現在の役と子供時代の役なんて顔が似ていないパターンがほとんどだ。
それは役者の演技の善し悪しとか事務所の兼ね合いとかでどうしてもそうなってしまうのだが、
「ちはやふる」では「子供時代を演じる子役」に至るまで徹底して配役にこだわっていたところに感動した。

また、若手俳優だけでなく大御所の役どころも見逃せない。
かるた部顧問の宮内妙子先生を演じる松田美由紀はバッチリのハマリ役。

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役者としての重鎮具合からすればもっと出番があっても良かったものを
劇中ではあまり出てこなかったというもったいなさ振り。
極めつけは主役三人のかるたの先生である原田秀雄役の國村隼だ。

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いや本当にこんな神主居そうだし
「いやあ、実はかるた歴40年なんです」と言われたら
「へええそうなんですかああ」とその言葉を無条件に信用してしまいそうだ。
多くの若手俳優がひしめく中で彼の演技が作品を引き締める。
映画の出演頻度やメディアの露出具合、世間の知名度も含めて、この配役こそまさに"絶妙"である。

そして



ちはやふるのキャスト「坂口涼太郎」

彼のムカつき具合、最高です。


絶妙な無理のなさ

"絶妙"といえばストーリーと展開においてもである。

まず物語の流れのテンポが良い。
これは「説明口調を用いていない」「ストーリーで昔のことの説明を省いている」点によるところが大きい。
単行本数冊に渡るストーリーと人間関係を、映画では正味2時間で一気に見せなければならない。
ゆえにどうしても説明口調が多くなったり「ここに至るまでの経緯」を示さなくてはいけなかったりする。
しかし「ちはやふる」では、それを無くす。
物語の要となる大事な部分のみの説明以外は一切省いたため、
展開に滞りがなく実にスムースに話が進んだ印象がある。
どこを切ってどこを残すかの取捨選択も良かったのかもしれない。
松田美由紀の出番をバッサリ切ったのも展開をスムースにするための一環だったのだろう。
結果「説明口調なんていらなかったんだ!」と思えるほどのテンポの良さを生んだ。

また、あらゆる説明やシーンをバシバシ削ったにもかかわらずストーリーに無理がない。
テンポを良くしようとするとその反面、「これ、こんなに上手く行くか?」的な
物語を急ぐあまりに話に無理や矛盾が生じてしまうリスクが出てくる。
しかしこのリスクもあっさり回避してしまった。
この理由はもう、どこを切ってどこを残すかの取捨選択が良かった、ということになるのだろうが、
もうひとつの理由はキャラクターたちが織り成すドラマにあるのではないかと思う。
あのエキセントリックなキャラたちが集まったからこそ、
普通ならありえないような展開ができあがり、
「このキャラクターならこの展開もありうるな」という、見る人への納得に繋がる。
「説明の排除」「展開のテンポの良さ」「無理のないストーリー構成」は
まさに"絶妙"である。


エキセントリックなキャラクター

その「エキセントリックなキャラクター」は、話が進んでいくうちに
すんなり自分の内に入っていったのも印象に残った。
漫画のキャラクターといえばインパクトを重視するためエキセントリックな設定である場合が多い。
「ちはやふる」も同じで、キャラクターの登場シーンでは
「あーあ、やっぱり漫画のキャラだなあ」という「こんなやつ実際にいねえよ」的な違和感があった。
しかしストーリーが進んで、キャラの詳細が徐々に明らかになるにつれて
みんな血の通った、親近感のあるキャラになった。
唯一、主人公である千早はエキセントリックなままであった(笑)が、
太一は主人公でないがゆえに話の「中心」になることが多かったし、運の無さに苦しんでいた。
机くんは人間味のなキャラかと思えば、一番人間臭い感情を露にした。
先述したとおり「エキセントリックなキャラクターに話を運ばせた」ことが
無理のないストーリー展開を生んだ要因かもしれない。

キャラクターの人間味とストーリー展開がマッチした見事なシーンといえば、
物語終盤、関東大会の決勝で千早たちの相手となった
北央学園のムカつく悪役ふたり、須藤とヒョロである。
例えると「ドラえもんのジャイアン」である"ザ・悪役"ドSの須藤は、
激闘の試合を終えて白目をむいた千早に驚き、「死んでる!!!」と叫び、
観る人の笑いを誘った。
太一と対戦した「スネ夫」のヒョロは最後にお手つきをしてしまったが、
彼は異議を立てることもなく負けを認め、悔し涙を流した。
悪役にお笑いシーンに持ってきたこと、思わず同情してしまうシーンに仕立てたことで
「悪役」から、彼らもまた「親近感のあるキャラ」になった。
また、大会で優勝したことに加えて物語において「悪役」がいなくなったことで、
見事に「この話がここで終わった」という意識を観客に植え付けることに成功した。
そして新の「あの一言」で次なる展開「下の句」へと、気持ちも新たにつながるのである。
ここでも、"絶妙"。


ちなみに筆者が誰の気持ちが一番分かるかといえば机くんです。

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広瀬すずはかわいい

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広瀬すずはかわいい。
これは事実である。
かわいいは正義だ。
三段論法にすると「広瀬すずは正義」になる。
広瀬すずは正義である。
こんなに間違いのない公式があるだろうか。
驚いたのは千早が競技に集中して目を「カッ」と開くシーン。
あの目の形が、まるで漫画に出てくるかのような絵に描いたような目だった。
目の形がもはや漫画レベルの美しさであり、
目の形だけで画が持ってしまう。
まさに「歩くかわいいは正義」と言って差し支えないだろう。

でも




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僕は萌音ちゃんが好きです。


競技かるたはスポーツである

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競技かるたはほとんどの人がルールを知らないし、
「なんかこういうもの」くらいのイメージを持っているものだと思う。
自分もそうだった。
だが実際は文化系とは真逆の「体育会系」であるという衝撃の事実だ。
劇中でも「合宿」を行っているし、
大会の団体戦では「相手に誰をぶつけるか」といった、
かるたの技術とは別のところでの「頭脳戦」も必要になってくる。
自分を含め競技かるたを知らない人は誰もが驚いた点ではないだろうか。

「文化系ではなく体育会系」というところで思い出したのが
「幕が上がる」という映画である。
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「幕が上がる」は高校の演劇部を舞台にした青春映画で
原作は平田オリザ、脚本 喜安浩平、監督 本広克行で、
主演は今会えるアイドルでお馴染みのももいろクローバーZで話題にもなった。
僕が思い出したのは「高校をのとある部活動に青春をかける」という点でもそうだが、
この映画で演劇部の顧問の先生役を演じた黒木華の言葉だった。

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自身も学生時代に演劇部に所属していた彼女はいくつかのインタビューで
「演劇は文化系と思われてるけど、本当は全然違う」
「体育会系なんです。スポーツ、格闘技なんです」
と語っていた。
僕がフラッシュバックしたのは彼女の言葉であり、
「ちはやふる」は「幕が上がる」と同じで、
実は文化系と思われがちな体育会系の青春の物語だったという
事実と関連性だった。

ただ違いは「ちはやふる」は主人公三人の恋愛関係が物語に絡んでくるのに対し、
「幕が上がる」は恋愛的要素が無いところだ。
ここはももクロはアイドルだから…ということなのだろう。
映画作品とはいえ恋愛がらみはNGだと笑

この「幕が上がる」も青春映画としてすばらしい作品なので
興味の持った方はぜひ観て頂ければと思う。
アイドル映画と侮るなかれ。




EDにPefumeの主題歌

スタッフロールのエンディングにテクノポップユニット・Pefumeの新曲「FLASH」が流れる。
作曲したのはcapsuleの中田ヤスタカで、
これまでPerfumeのみならず映画・CMでいくつもタイアップの曲を作ってきた。
Perfumeだと森永乳業「Pino」のCMや映画「ドラえもんひみつ道具博物館(ミュージアム) 」、
きゃりーぱみゅぱみゅでは求人サイト「an」やコカ・コーラのCM、
三戸なつめでは米映画「ピクセル」の日本版エンディングテーマなど、
数多くのタイアップを手掛けてきた。

今回も中田ヤスタカ得意のタイアップの曲作りがいかんなく発揮されている。
「舞う落ち葉が 地に着くまでの
刹那的な速度に近くて
フレームは一瞬 ハイスピードで
一直線 光裂くように」

「火花のように FLASH 光る
最高のLightning Game
鳴らした音も置き去りにして」

「かざした手を弓矢に変えて」

など、劇中のまさにあっという間の勝負、
弓矢が飛ぶかのような鋭い腕の動き。
一瞬の攻防が「火花が散る」のを彷彿とさせるにふさわしい。
これが本編の映像の記憶と相まって、
「ちはやふる」にぴったりの曲になっている。

これが功を奏したのか、「FLASH」のMVも
映像作品としての出来の素晴らしさも手伝って
Youtubeでは異例の再生回数になっている。
「ちはやふる」を観た方はこちらもチェックしてみてはどうだろう。



以上が「ちはやふる」を観ての感想。
後ろのほうの項目、どのへんが"絶妙"だったの?
なんて思っちゃダメだゾ✩
4/29には続編「下の句」も公開されるので、
「上の句」を観た人にとってはいよいよといったところである。
邦画だから、とか、キャスティングがちょっと…
などと言わずに一度映画館に足を運んでみてはいかがだろうか。
きっと楽しんで帰ることができるはず。

ドキュメント映画 「WE ARE Pefume」 を観た

2015.11.15.Sun.23:20
イモっ子で泥臭い彼女たちは
紛れもなくプロフェッショナルでエンターテイナー

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

観た。

まさにドキュメンタリー。
それしか言い様がない。

彼女たちにとって三回目のワールドツアー。
そのツアーの裏側とツアーを通じての
彼女たちの心情、心の移り変わり、決意…
スクリーンに映し出されるのはそれそのもの。

冒頭、SXSWで披露されたSTORYが流れるが相変わらずなんなのかわからない。
その"なんかスゲーけどなんかわからん"のまま圧倒される。
映画のオープニングとしては十分な演出と構成だった。

ライトなファンや全く知らない人たちが見て「Perfumeすげーよ」と思うくらいのオープニングと対照的に
スクリーンではライブの舞台裏でのありのままの3人が映し出される。

今回密着したこの世界ツアー、時期としてはちょうど2014年のぐるんぐるんツアーのあと。
わざわざ特別料金2000円を払ってまで映画館に見に来る熱心なファンとしては
当時の彼女たちのちょっと弱気の発言を聞いていたところから
「マディソンスクエアガーデン行くぞ!」までの強気の発言の
移り変わりを目の当たりにして驚かされたりする。

ライブに行って泣いちゃうくらいの気持ち悪さを持ち合わせていないファンは単純に
「うわライブの裏側ってこんなんなのか」「Perfumeってこんな人たちなんだ」と
素直に驚かされるだろう。
いや、ライブの裏側はコアなファンも目を引かれるけど。

※とはいえ以前の記事で「このドキュメンタリー映画はファンしか観にいかない」と言っちゃってたんだけど
監督をつとめた佐渡岳利氏がはっきり「ファン以外の人は観にこない」と話しててちょっと安心した。

佐渡 テレビは不特定多数の方がご覧になるので、Perfumeに興味のない方にも分かるように作らなきゃいけないですよね。でも映画だと、全く興味のない方は、多分観にいらっしゃらない。貴重な時間を使って映画館に足を運んでくださった方が満足できるようなものにするため、「皆さんPerfumeは知っている」という前提で、テレビで扱うより、もう少しメンバーの個性に踏み込んでコアな部分を出すことは心がけました。 - 「Perfumeのクールな表現は、熱い思いに裏打ちされている」佐渡監督が明かすアメリカ公演の裏側



がんばるぞ、オー!
がんばるぞ、オー!
がんばるぞ、オー!
がんばるぞ、オー!

ツアーはまず台湾からシンガポールへとまわる。

恒例の通訳やらせ芸。
終演後の合唱の時に舞台裏からあ~ちゃんの歌声、
上手かった。
ちゃんとボイトレしてますね~、って感じ。

今回特に驚いたというか関心を引いたものの一つが「楽屋裏での反省会」。
「ダメ出し」という言葉がまったく似合う反省会だった。
海外で「ライブをよりよくするため」にこれをやって、結果こうで、反省して、次に生かしての繰り返し。
毎回ライブのあとにこんなことをやっていたのかと。
おそらく日本でも変わらず、今までずっと続けてきたことだったんだな。いや、そうに違いない。
淡々と、淡々と同じ作業を繰り返す。
その淡々の積み重ねが実際によりよいライブになっていっているのは確かだ。

MIKIKO先生の悔し涙にはびっくりした。
本番直前に照明のLEDが点かなくなってしまった。
「たかが小さな機材トラブルなんて、いままでにも何度かあっただろうに…」
観ていて正直にそう思った。
「そんなことで」のあの涙に、Perfumeの、
それを支えるスタッフのひたむきな真面目さと本気さがかいま見えた気がした。

かしゆかはライブ終わりにタオルで脚を巻き巻きするんだねー。
ケアを怠れば次に響くのだろう。
画面では何気ない風景のように見えたプロ意識。

あっ、のっちがマキシマム ザ ホルモンのTシャツ着てる。

楽屋裏のシーンで個人的に驚いたのは
あ~ちゃんのセリフの発声とその覚え方。
あ~ちゃんといえば驚いたときや喜んだ時に突然発するあの金切り声一歩手前のハイトーンボイス
通称あ~ちゃんボイス。
ステージではその声の高さとトーンの上げ方で客を煽ることが多いんだけど、
発言するセリフをどの発音のときにどの程度音の高さとトーンを上げるか
何度も反復練習していた。
たとえば「みんなー!」の発音のときは「みん→な↑ー!」という音の高低なのだが
これ、アドリブやその場でできた偶然の産物じゃなかったんだ…
練習して、意識してたんや…
というショックも含みつつの感嘆があった。

LEVEL3に到着。

ミートアンドグリート
※ミートアンドグリートとは…!→スーパースターに面と向かって会うことができ、握手や写真撮影、またサインをもらえるファンセッションなのだ!
のとき海外のファンが日本語で
「辛いことがあった時はPerfumeの曲を聴くと元気になりマス」ってかしゆかに伝えるシーンがあり
安心した。
自分がまさにそうだから。
曲を聴いたときでもライブでも、泣くってよりかは元気を貰って帰ってくる。
はじめてPerfumeのライブに行った時からずっとそうだ。
だから少しホッとした。
ライブではいつも周りは泣いてる人ばっかだし笑
どの国の人も、好きになるパターンやハマったときの様相、
コスプレや振りコピなど、
愛情表現がほとんど同じだった。
Perfumeが好きな人たちは日本も海外もまったく変わりがなかった。

ライブという目的地での一番の仕事を終えるとまた次のライブ。
街から街。国から国へ。

彼女たちはNYへ降り立つ。
ここがツアーの最終地点。
あ~ちゃん、結露で濡れた窓ガラスにお絵かき。

寒いNYの夜に始まった最後の夜は不安と緊張に晒されながらも
大成功に収めた。
ラストの「MY COLER」
まるで人々の頭に芽吹いたかのように手のひらの花が咲く。
あの画こそがまさに我々が共通体験として持った楽しいPerfumeのライブの姿であり、
日本も海外も変わりがなかったという証明でもあり、
まさに今回の映画のラストにふさわしい映像だったと思う。

ツアーファイナルの打ち上げ、NYに所属事務所アミューズの会長まで現れた。
「初めて(会長から)花をもらった!」と感激するあ~ちゃん。
あ~ちゃんの締めの言葉に感涙する会長。
アミューズの伝統なんでしょう。
最後の五本締め。

映画のエンディングに流れる「STAR TRAIN」。
「中田さんがデビュー15周年の記念に作ってくれた曲」と
先日の3:5:6:9ライブであ~ちゃんが言っていたのだが、
この曲が映画のエンディングで流れてるのを聴いたときが一番ジンときた。
「STAR TRAIN」の初披露は3:5:6:9ライブの時だった。
大人の事情でしょうがなかったのかもしれないが
この曲は映画のあとに披露したほうが良かったんじゃないかくらいに思った。
ワールドツアーの総括は「MY COLER」だったが
この映画の総括は「STAR TRAIN」以外になかった。

全体を通してみるとほんとに「ただそこにあったもの」を撮った、という印象だった。
やろうと思えばいくらでも感動的な物語に仕立て上げられたものを、
そうはしなかった。
あえてやらなかった。
ナレーションがハリセンボンの近藤春菜だったのも大きなポイントだ。
これが田口トモロヲだったらプロジェクトXばりの感動巨編になっていただろう。
そんなことをしなくても十分に感動的だった。
彼女たちとスタッフのひたむきさと
より良いステージのために淡々と、黙々と作業に打ち込む姿に、
どの国に行っても日本と同じライブを貫き通す姿勢に、
海外のファンも日本に住む我々と変わりはないということ、
そしてPerfumeは日本と同じように海外のファンを楽しませることができること。
その現実を映像として収めることができただけで、
目に焼き付けることができただけで
それだけで十分過ぎるほど胸はいっぱいになった。

ずしんと座ったシアターの座席に、ずしん、とした感動があった。


なんかもうたらたらブログ書かないでこれ読んどきゃあいいような気がしてきた
「Perfumeのクールな表現は、熱い思いに裏打ちされている」佐渡監督が明かすアメリカ公演の裏側 -Realsound
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