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映画『君の名は。』を観た

2017.03.01.Wed.01:57
もともと本当に興味なかったんだけど映画『君の名は。』を観た。
理由はベタに邦画の興行収入でトップ10入りを果たして次々と記録を塗りかえるほどに人気だったから。
そういう映画をけなす・批判する・「俺にはなんで人気なのかわからん」と言うことは容易い。
自分が映画館に足を運ばせるきっかけとなったのはそういった斜めから構える容易さの忌避感と、
「なぜこの映画は人気なのか」という探求心と、
「そんなにみんなが観に行ってるんだから一度観てみよう」という素朴な興味からだ。

という前置きで始まって「107分って少し短いな」と思いつつ映画館で実際に作品を観た感想をば。
面白かったです。単純に。
自分がもうおっさんになってしまったからなのか、途中で涙ぐんでしまったところもあった。

率直に感じたのは「若い人が観て感動する映画だなあ」。
そして「ああ、批判される理由もわかるなあ」とも思った。
そんなところから
『君の名は。』のアニメ映画作品としての面白さはなんなのか、というところと、
その魅力はなぜ若い人たち…特に10代のお客さんを熱狂させるのか、というところを見ていきたい。

まず『君の名は。』の特徴の一つとして「映像の美麗さ」というのがある、らしい。
メディアがそう言ってるから。
これは『君の名は。』だけの話ではなく監督を務めた新海誠が手掛ける作品に一貫した定評のあるポイントだという。
実際に作品の中では、例えばW主人公のひとり・宮水三葉が初めてもう一人の主人公・瀧の体と入れ替わった日の朝。
目の中に飛び込む東京の街並み、新宿を走る路線、渋谷の人の往来。
その風景を写実的に、何より「美しく」仕上げている。
物語前半のそのシーンで「メディアの言ってる『映像美』ってこういうことか」と納得した。

メディアは「『君の名は。』は限られた予算の中で作られた」と言う。
そしてまた「動画の枚数がほかのアニメ作品と比べても少ない」とも言う。
それがわかるところがあって、これも瀧の目(実際には三葉)に飛び込んできた東京の街並みのシーン。
線路に沿って流れていく電車。
普通のアニメーションなら何枚も使って電車が動くさまを描くところを、
実は一枚の絵をずらして動かしているだけだったりする。
このシーンで「あ、枚数が少ないってのはココね」と思った。

映像美の点でもう一つシーンを上げると「隕石が三葉の住む糸守町に堕ちていく」ところ。
浴衣姿の三葉の真上を隕石が流れていく様子を描いたこのシーンで、
ぐるぐると動くカメラワークに雑草のざわめきがこれでもかというくらい繊細に、ダイナミックにたなびいており、
町一つを消してしまうという破滅の瞬間でありながらそれとは真逆を行くかのように
映像は美しさが際立っていた。

さて「映像の美しさ」はまさにその通りなのだが、それだけではこの作品の特徴をうまく言い表してはいない気がする。
何と呼べばいいかとすればそれは「緩急」ということになると思う。

東京の街並みであったり頭上を行く流星であったり、「美しい」と思わせるシーンが「ここぞ」というところで
全面に押し出されてるのだ。
いくら美しいといえどその映像が延々続いているだけだと観客はそれに慣れてしまう。
ではなく、雑草一本一本の細かなざわめきの表現に大量に動画枚数を使う一方で、
通常のシーンでは少ない枚数で済ませてたり
あるいは流れる電車のように大胆に削ってしまうことで「美しい」部分と「そうでない」部分にメリハリをつける。
そうすることでより「美しい」部分がクローズアップされる。
観ている客に強い印象を残すことになる。
これは動画を多く使えないという現状ゆえに編み出した策とも言えるだろう。
削るところは削り、使うところは使う。
この「緩急」が『君の名は。』の一つの特徴だ。
そして「予算の少なさ」と新海監督の真骨頂と言われる「映像の美しさ」を見事に両立させているところに
「おっ」と感心したのであった。

もう一つ映像の特徴の一つとして挙げられるのが「ドアや戸が開く」カット。
家の引き戸、電車の自動ドア…
『君のは。』だけの特徴かもしれないが、「ドアや戸が開く」カットが劇中にこれでもかというくらい多く登場する。
このカットの視点が面白くて、
ちょうど戸やドアが走る「収まり」のまん真ん中から、カメラの向こう側に向かって開く、というシーンになっているのだ。
「視点が面白い一枚絵」になっていて、見る人に新鮮な感覚を与える。
さらに何度もこのカットを使うことで、これが物語のテンポを生み出している。

先述した「緩急」とこの「独特のカット」が『君の名は。』の作品のリズムを生み出す要因になっている。
さらに上映時間107分という時間に加え、リズムの良さが観客を飽きさせない。
これらによって観る人に「『君の名は。』という映画はこういう感じなのだな」と思わせるに至らしめ、
『君の名は。』が面白いと思わせるリズムになっているといえる。

続いてストーリーの部分。
大雑把に言うと、東京に住む高校生の立花瀧と、
遠く離れた岐阜県の山あいの町・糸守町に住む宮水三葉の心と体が入れ替わり、
そこから二人の「お互いがうまくやっていくための生活」が始まる。
前半まではよくあるラブコメの設定だが後半にどんでん返し。
実は二人が行き来する間には3年のタイムラグがあり、
しかも三葉の住む糸森町は隕石の落下により町のほとんどが消失してしまっていた。
そして三葉もその災害により命を落としており…
瀧はすべてを確かめるために「3年後」の糸森町に向かう。

どうですか。この映画レビューに載せてもいいぐらいの作品紹介。(自賛)
前半にしろ後半にしろ、やっぱり「どこかで見たストーリー」感は否めないと思う。
だがこの「どこかで見たストーリー感」が大事なのだ。

『君の名は。』のエグゼクティブ・プロデューサーである東宝・古澤佳寛氏(だったと思う)がテレビのVTRでこう話していた。
「この作品を作るために相当のマーケティングをして相当に練った」(だったと思う)
ある記事では「どうやって"より多くの人に観てもらえるか"」的なことを追求したといった内容が書かれていた。
作品づくりのいの一番に始まったのはここで、「より多くの人に観てもらうこと」が作品作りの起点になっている。
そのより多くの人に見てもらうためにはの解答として"誰にでもわかる物語"を選んだのだ。

「今までにない作品づくりを!」をスローガンにすると奇をてらい過ぎて
難解なストーリーになったりしてとっつきにくいものになりがちだ。
それでアニメファンや映画ファンは喜ぶかもしれない。
しかし普通のお客さんは見てくれなくなる。その人たちの評価は低くなる。
だからこそ選ばれたのはわかりやすい…「どこかで見たようなストーリー」だ。
そしてただわかりやすいだけでなく、
「男女の心と体が入れ替わる」「悲運のラブストーリー」と、
いかにも日本人が好みそうな設定をチョイスしている。

また「より多くの人に観てもらうこと」が作品作りの起点になっているからこそ「見せ方」にこだわっている。
先に書いた「作品のテンポ」にも通ずる点だが
前半のストーリーでも、冒頭「電車から降りる三葉のほどいた髪留めを瀧が受け取るシーンからはじまり、
その夢を見ていた三葉が起きる。
そして普段と違うところにいると感じた三葉。実はこの時すでに三葉の中身は瀧に入れ替わっていたのだ。
そのまま展開が進むのかと思いきや、「中身が三葉のまま」の三葉で物語が続いていく。

これは物語が進むにつれ瀧と三葉の体が入れ替わっていることがわかるのだが、
「心と体が入れ替わる」「タイムラグがある」という設定を効果的に使うことで「謎」を作り、
「一体どうなってるんだ?」と観客に思わせて作品に引き込ませる。
そういった見せ方にしているのは伏線を多く張り巡らせているためであり、
また伏線を張り巡らせることによって『君の名は。』という作品のテンポを生み出していることにもなっている。

作品の外の部分ではどうだろう。
『君の名は。』を特集したNHKのクローズアップ現代+では「(ヒットの理由は)SNSでの拡散、"バズ"にある」としていた。
映画の公開前はそれほどクローズアップされていなかったが、
公開一か月前に主題歌と劇伴を担当したRADWIMPSが「前前前世」のMVをアップ。
そこで一気に人気が出たという。
また映画の公開以降もSNSを中心に話題となり、その「口コミ」がどんどん拡散されて今のヒットにつながった、
ということだった。

ヒットの理由として確かにSNSでの拡散、口コミは大いにあると思う。
実際に自分もそれで映画館に足を運んだクチだ。
だがそれだけではなにか腑に落ちない、ヒットの理由として足りない気がした。

そんなときある記事を読んでいたところこんな文章を目にした。

「これまで新海監督が培ってきたものをすべて合わせた得意分野で、「これぞ新海誠作品!」と言えるような作品にしましょう、「新海監督のベスト盤にしましょう」ということは話し合いながら決めていきました。」 [『君の名は。』エグゼクティブプロデューサーが語る、大ヒットの要因と東宝好調の秘訣 - リアルサウンド]



先にも書いたがエグゼクティブ・プロデューサーの古澤佳寛氏は
「この作品を作るために相当のマーケティングをして相当に練った」と語っていた。
つまり「新海誠という名前をもっと世の中に広める」
"新海監督作品を世に売りだす"ということだ。

筆者は新海監督の他の作品を観たことがないのだが
テレビの特集で過去の新海作品がVTRで流れたのを目にした。
チラリ程度の長さの映像だったが、「これは観る人を選ぶなあ」と見て思った。

映像の美麗さという点は過去の作品にも確かに見て取れたが、『君の名は。』に比べてくどいなと思ったし
キャラクターデザインも好きな人は好きなデザインといった感じ。
作品の雰囲気もなんとなく"暗い"印象があった。

これらの点を踏まえ「新海誠という名前をもっと世の中に広める」のスローガンのもと『君の名は。』の制作が行われた。
これまでの新海作品は観る人選ぶ、だから人を選ばない作品を創ろう、と。
より多くの人に作品を観てもらうためにはどうすればいいか。
それを実現するためにとったのが入念なマーケティングであった。
『君の名は。』のストーリーはなかなかベタである。
作品の雰囲気も明るい(特に前半)。
新しい感覚にあふれた前衛的な作品はj観客につっぱねられることがあるが、
ベタなストーリーはより多くの人の心にフックする可能性が高い。
その作品作りの方向性が「"売れる"作品をつくっただけ」と批判されることにもなってしまったのだが…
新海監督がラジオ番組に出演した際に『君の名は。』の反響について語っていた。

最も嫌だった反響には、「新海は作家性を捨ててヒット作を作った」、「魂を商業的に売ってそれが結果的にヒットになった」、「ありがちなモチーフの組み合わせだけで、そりゃヒットするよ」、「こんなキャッチーなモチーフだけだったら100億超える映画になるよ」といった批判を挙げた。 [新海誠監督、“『君の名は。』は売れる要素の組み合わせ”批判に反論「そんなに容易ならやってみればいい」BIGLOBEニュース]



「それはその通りかも知れないと思うと同時に、そんなに容易なことならば皆さんやってみればいいんじゃないかなとも思います」
と真っ向から反論したそうですが…笑
このコメントを読んでも"それはその通りかも知れない"と言っているので
映画作りのアプローチに関しては新海監督は自覚的であったと思われる。

とにもかくにも、結果たくさんの人が映画館に足を運ぶことになり、「売れた」のである。
こうした「より多くの人に観てもらうためのアプローチ」が『君の名は。』のヒットの理由と言えるだろう。



ここまで作品を好意的に見てきた。
筆者も実際に映画を楽しんで観ることができた。
ここからはどんどんツッコミを入れていこうと思う。
なぜなら『君の名は。』はたくさんの人を感動させた大ヒット映画であると同時に
ツッコミどころ満載の映画だからだ。

一番大きなところではやはり「流星の衝突」だろう。
物語冒頭の三葉がテレビを点けたところ流星のニュースが流れていた。
この流星は地球に最接近したところで崩れ、
その分散した流れ弾が隕石となり地球、日本に落ちて大災害を起こしてしまう。
落ちたところは三葉の住む糸守町。
瀧と三葉の心と体が入れ替わりは今現在リアルタイムで起こっているものと思いきや実は3年のタイムラグがあり、
隕石の衝突により糸守町の大半は消失、三葉は既にこの世にいなかった。
二人の繋がりは消え、心と体の入れ替わりも無くなってしまった。
瀧は真実を確かめるために糸守町に向かうことになる。
これが『君の名は。』の大きな転換部分だ。
作品のメインビジュアルにもなっているあの綺麗な流れる星は実は重要な意味を持っていたわけだ。

物語は「タイムラグがあった」「三葉はこの世にいない」という前提のもと、
話の中心が「三葉をこの世に取り戻す」ことに大きくシフトする。
さて繋がりが消えた理由はわかったが、
この事実が判明したこの時点で「なぜ心と体の入れ替わりが行われたのか」の説明は
全くなされていない。

三葉のおばあちゃんの赤い糸の繋がりの話や、三葉の家系が代々心と体の入れ替わりが行われることがある
という説明はあったが、
なぜ代々そういう体質なのかがわからない。

心と体の入れ替わりに3年のタイムラグがあったがなぜ3年のタイムラグがあったのかの説明はなく
わからない。

そもそもなぜ瀧と三葉が繋がりを得ることになったのかも物語でうかがい知ることも出来ずわからない。

さらに三葉が巫女を務める宮水神社に代々伝わる「口噛み酒」を
瀧が飲み干すことで3年前の三葉と会話を交わすことができるのだが、
なぜ「口噛み酒」を飲んだらまた繋がることができたのかもわからない。

すべて「こうしたらこうなった」というだけで物語はポンポンと進んでいってしまい
もういろんなところで説明は全くなされていない。ないないづくし。
理由は物語の中で語られることはなくすべて置いてけぼり。

もっと言って「流星の衝突で町が消えた」という設定。
突然心と体の入れ替わりが無くなった理由は三葉がこの世にいなかったから。
その原因が「流星の衝突」!?
一昔…いやふた昔前のギャグマンガか!?
といった具合なのである。

物語の前半と後半をわける「流星の衝突」が
映画を観る人の気持ちが冷めるか否かの境目だろう。
筆者も映画を観ている最中に「あっ、そういう展開なの?」と思ってしまい
一瞬冷静になった。

筆者は最初から割と楽しんで観ていた方なのでそんな大どんでん返しでも
最後まで見るモチベーションを保てたが、
観る人によってはもう最初から楽しめないというのはまあわかる。
前半のハートフルなラブコメ展開は多くの人に受け入れられやすいが、
一方で「こんなのありえない」「安っぽくて感情移入できない」などで毛嫌いされるものでもある。
あるいは自分のように鬱屈した学生時代を送ってきた者からすれば
あのキラキラが「眩しすぎて逆に見れない」というのもあると思う。
20代30代よりもうちょっと上のオタク第一世代や団塊ジュニア世代からすると
いまの美少女アニメ風に見えて面白くない、というのもあるだろう。

物語前半をそんな冷めた目で見てしまうと、「流星が落ちた」転換部分も「なんじゃそりゃ」となるだろうし、
先に書いたように後半の説明不足や、いわばご都合主義的な展開はもっと感情移入できないだろうことは
容易に想像できる。
『君の名は。』を「つまらない」と評する人たちがなぜそう思ったのはおそらくこんなところだろう。
逆に「一周回って面白い」という人もいるかと思う(笑)

この「感動した」「つまらない」という全く真逆のふたつの意見は実はどちらも正解である。
『君の名は。』は「思春期を越した人には見れない作品」だからだ。

またとあるインタビューで古澤佳寛氏のこんなコメントがあった。

「監督は、この作品を「思春期の人たちに投げたかった」と仰っていたんです」 [タイミングがすべてハマった。大ヒット映画『君の名は。』チームの作品づくりとは(ベストチーム・オブ・ザ・イヤー - getnews]


『君の名は。』は「思春期の10代の子たちに楽しんでもらえるように作った」作品。
これこそが新海監督やプロデューサー以下スタッフが目指したものなのだ。
映画はものの見事に10代を中心に受け入れられアッという間に人気を得た。
実際の作品づくりの手法とそれによって出来上がったものはまさにドンピシャ、
制作側からすれば大・大・大成功となった作品なのである。

別の作品を例にとってみよう。
2000年から約2年弱「ビッグコミックスピリッツ」で連載された高橋しん原作の漫画
『最終兵器彼女』だ。
北海道のある街で暮らすシュウジとちせは静かに恋をスタートさせた。
しかしある日謎の「敵」が街を空襲。
戦火のなかちせは「最終兵器」と化して「敵」と戦うことに…といったストーリー。
作者の高橋しんはこの作品を描き上げたあとのコメントでこのように述べている。

人より少しだけ不器用で。人より少しだけ恋のスタート地点が遅く。人より少しだけ、懸命に恋を駆け抜ける二人が生きる時間の記録です。ふたりの恋だけが、全てです。リアリティーなど、ただ、それのためだけにあればいい。二人の気持ちだけが、本当であれば。 [SINpre.com!]


それは、もう自分がとっくに過ぎてしまった楽しく、おばかで、恥ずかしい「あの」時代にもう一回向き合う日々であると同時に、作家として初めての感覚に捕われた日々でありました。 [SINpre.com!]


高橋しんはこの作品を描くにあたって「自分の好きなものを描きたい」というのと
「いずれ描けなくなるから」という思いで『最終兵器彼女』を描いた。
(初連載となった『いいひと。』が結構長く続いてしまったというのもある)
ふたりの恋だけが全てと言い切ってしまっている。
全てをわかった上でこの作品を作った確信犯だったのだ。
今はもう『君の名は。』に感情移入できない大人も、
思春期や20歳前後の頃にこの作品を夢中で読んだという記憶があるのではないか。

『最終兵器彼女』も賛否両輪のあった作品だった。
そしてある一定の時期を過ぎると素直に感動できなくなる、
まともに読めなくなる漫画である。
それは『君の名は。』も同じだ。
新海監督もすべてをわかった上で『君の名は。』を作った。
思春期の10代にとってのファンタジーであり素直に感動できる
「自分たちのリアル」な作品なのである。
物語の中でなされていない説明や強引とも思える辻褄合わせは問題ではない。
三葉の命が助かれば、
瀧と三葉の二人の繋がりが途切れなければそこはどうでもいいのである。

「思春期の10代の子たちに楽しんでもらえるように作った」ということは
「それ以外の思春期を越した人たち」を相手にしていないということだ。
いい年した大人がこの映画を観て軒並み「つまらない」と言うのは
まさにその評価は正解であり、なんら間違った感情ではない。
もっというと「つまらない」とは吐き捨てた人々は制作者側の思う壺にハマってしまっていたのだ。
ある意味、まんまと作品に踊らされたのである。


否定的な意見の側からも『君の名は。』を見てきたが、
あと少しだけ作品作りの気になった点を。

作品を語る上で忘れちゃいけないのが主題歌と劇伴を担当したRADWIMPSの音楽。
もともとRAD好きだったという新海監督。
出来上がった楽曲を聴いて監督はおろかスタッフも手放しで絶賛したということだが、
実際に映画を観てみると確かに曲と作品ががっちりフィットしていた。
曲そのものの善し悪しや好き嫌いは置いといて、このフィット感は目を見張るものがあった。
筆者はRADは聴かないしあまり関心も無いのだが
『君の名は。』を観て「おっ、ちょっとRAD聴いてみようかな」という気にはなった。
(実際には聴いてないけど)
前前前世くらいはきちんと聴こうと思った笑

思春期より上の世代からは「よくある今風アニメのラブコメ」と捉えられがちな物語前半だが
そう思わせない工夫も見られる。
一つはその生々しい設定だ。
三葉はとある田舎の政治家の娘であり、神通力?を持った神社の娘である。
その自然に囲まれた風景とともによくある田舎特有ののどかな感じと閉鎖感が出ていたのがなかなかリアルだった。
一方で瀧は都心に住むシティボーイ(古)。
その対比のギャップがより生々しさを浮かび上がらせる。

もう一つはその田舎のシーンを丁寧に描いていること。
生々しさが増すとともに、
きちんと描くことで物語に説得力を生み出し伏線を張ることにもなり、
ただの美少女アニメや今風のアニメとの違いを生み出している。
ともすればダレがちなシーンになりがちだが、
先述の「映像の美麗さ」「緩急」や「独特なカット」でそう思わせない。
そしてそれが作品のテンポ…特徴に、といった具合である。



いろんな意見や感情がたくさん飛び交った『君の名は。』。
予算の少なさ、動画枚数の少なさをカバーし、なおかつ新海誠という才能を前面に押し出すことに成功した
両立を見事に生んだ映画。
そしてそれは「10代を楽しませる」というコンセプトだったために賛否両輪となった、
とにもかくにも話題性のある作品だった、というところかな
まとめますと。

あと、ヒットの大きな理由のもう一つは「アニメが市民権を得たこと」だと思う。
その昔、筆者が10代だった90年代まではアニメは「モテないオタクたちの持ち物」だった。
しかし2000年代に入って『電車男』など秋葉原のフィーチャーがあると
一気にアニメが「オタクではない層」に拡散。
大の大人はもとよりオタクでもなんでもない一般層や芸能人も「アニメ好き」を隠さなくなるように。
いまや『君の名は。』の主人公である瀧と三葉の声を担当した
神木隆之介と上白石萌音という美男美女が揃って「アニメが好き」とか言っちゃったりしているのである。

だいたいにしてジブリ作品としてみんなが知るところとなった「ナウシカ」も「ラピュタ」も「トトロ」も
80年代の公開当時は赤字だった。
その状況がようやく変わったのが「魔女の宅急便」からだった。

オタクではない層にアニメ好きが広まっていき、大の大人や一般層がアニメを観ることが
なんらは恥ずかしいことではない普通になってしまった今現在の2010年代半ばこの状況に
たくさんの人の心にヒットする作品が投下された。
アニメを観る人の数が昔と比べて圧倒的に違う。
しかもジブリ作品は考えさせられる部分や謎めいた部分があるが、
『君の名は。』はいちいち難しいことを考えなくてもいい。
だから大ヒットになった。

「なんだ、ヒットの理由ってそんなことかよ」と思われそうだがたぶんそんなとこだと思います。
地味に。

今現在はジブリ作品の興行収入をすべて越えて海外の映画賞も受賞。
世界各国の映画館で上映が開始されているわけですが、
本国日本においていま自分の興味は
「映画館にすら足を運ばなかった人が『君の名は。』を観てどう反応するか」です。
地上波放送を楽しみにしています。

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私立恵比寿中学について

2017.02.15.Wed.00:02
アイドルグループ・私立恵比寿中学の松野莉奈さんが2月8日にお亡くなりになりました。
謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

いまはもうライブにも行かなくなったしグッズも買わなくなったし
新譜の情報も追わなくなってしまったのだが、
その昔推していたグループの一つでありました。

訃報を聞いた時はあまりに突然のことで「えっ本当に?」という驚きが先行してしまい
半信半疑だった。
ネットで情報が錯綜していたがその日の夜に公式が「お知らせ」を更新して、
はっきりと松野莉奈…りななんが死んだことが明らかになった。

公式が報告をしても、確かにもうこの世にはいないことが判然とした事実となっても
悲しみというものが自分の中に込み上げてこなかった。

不意を突かれたとでもいおうか、
背後から突然ぶつかられて「えっ」と思って振り返っても誰もいないみたいな、そんな状態。

今日ずっと沈黙していた公式がブログを更新。
グループのマネージャーである藤井ユーイチ、通称「校長」と
メンバーひとりひとりのコメントが寄せられていた。




校長とメンバーの文章を読んで
「ああ、本当に亡くなってしまったんだな」と
湧いてこなかった実感がほんのちょっと湧いてきた気がした。
これから徐々にその事実をその身に感じていくことになるのだろうが
はっきりとそう思うようになるのにはまだちょっと時間が掛かるかもしれない。

何に対して実感があるかと言えば
りななんの家族やずっと一緒にやってきたメンバーとスタッフのことを思うと
胸の奥がきゅっと詰まるような気持ちになる。
ただそれだけである。

対談Vol.3 ~コンサートホール問題~

2016.09.03.Sat.22:40
司会者「お久しぶりです」

おとうと「お久しぶりです」

司会者「またちょっとあいだ空きましたね」

おとうと「前回ほどじゃないでしょ」

司会者「季節変わっちゃいましたよ」

おとうと「変わっ…ちゃいましたねぇ…あいだ空きましたね」

司会者「認めたw」

おとうと「いやーことしもたくさん夏フェスが行われましたねえ」

司会者「おっ自分から急に来たw そーですよ夏フェスですよ」

おとうと「もう9月に入って…7月8月の2ヶ月たくさんありましたね。頭の京都大作戦からDEAD POP、なつびらきフェス、フジロックと」

司会者「8月もロッキン、サマソニ、ライジング…まさにフェスの季節、真っ盛りって感じでしたね」

おとうと「ほんとに全国津々浦々、いろんなところでやってますよねぇ。え、こんなとこでやるの?みたいなのもあって。会場に関してここ最近で自分が気になったのが、フェスじゃないんですけど、One Ok Rockですね」

司会者「ワンオク。最近だと海外ツアー決まってますよね。日本でやるんですか?」

おとうと「ええ、9月に2DAYSありまして。んで、そこの会場が静岡の渚園なんですけど」

司会者「えっと……どこですか?(笑)」

おとうと「ほんとにね(笑) 思わずGoogleMapで調べちゃったりして」

司会者「つま恋でもなく」

おとうと「浜松の浜名湖にあるスポーツ施設のあるキャンプ場みたいなんですね。なんでまたそんなとこだよっていう」

司会者「ファンもびっくりでしょうね(笑)」

おとうと「さっきのつま恋が有名ですけど、なんらかの事情か何かでそこにしたんでしょうね。今年は、彼らの所属するアミューズのフェスも無かったですし」

司会者「何かつま恋は営業終了みたいですよ。ついこないだのニュースで出てましたね 」

おとうと「あら!そうなの!そのせいか!(笑) まあそれはそれとして、最近そんなとこでやるの?とかなんでその会場?みたいな場所でのフェスやコンサート多いなって思いません?」

司会者「それはちょっと思いますね」

おとうと「でしょ?もう一個例を挙げておくと、Perfumeですね。今年ニューアルバムを出してちょうど4~7月にツアーがありまして、会場が幕張3DAYSあったんですけど、関東はそこだけ、東京は無し。西日本は関西は大阪兵庫が無しで和歌山。一番西の会場が徳島っていう。」

司会者「え、広島とか九州無かったんですか。東京も。せっかくのリリースツアーなのに」

おとうと「一応追加公演で、ドームで名古屋、大阪、福岡は決まったんですけどね。でもやっぱり東京は無かったという」

司会者「はー…。それは…会場が押えられなかったとか?」

おとうと「そんな風にファンの間では言われてたんですよ。結局そういうことじゃね?っていう感じで」

司会者「やっぱ、そうなんですかねぇ」

おとうと「そう。このコンサートの場所が辺ぴなとこ、全国各地を満遍なく回れないっていうのは、会場が取れないっていうのが原因なんじゃないかと。で、それは以前から言われている各種ホール、競技場の耐用年数の問題に関わってるんじゃないのかなっていうのが今回話そうと思ってることなんですけど」

司会者「お、三回目にして今までで一番スムーズな流れの導入なんじゃないですか?やったじゃないですか」

おとうと「いや~がんばりました。そいで、この会場がない・取れないのいわゆる”2016年問題”を絡ませた"箱"問題をテーマに話していきたいと思います」

司会者「は~いよろしくお願いします~」

おとうと「とりあえず、おさらいからしておきますか。2016問題とはなんぞやと」

司会者「はい、導入部分を」

おとうと「2016問題っていうと漠然とし過ぎなんですけど、正確には『劇場・ホール2016年問題』と言いまして。劇場やホールがこの2016年に何が問題かっていうと、ミュージシャンや劇団、その他イベント興業が会場を使えなくなるというんですね。なぜ使えなくなるか、2020年に開催される東京オリンピックのためにに首都圏のホールや大型施設の改修や建て替えを行うから、というわけなんです」

司会者「はい」

おとうと「2016年1月に東京国際フォーラムのフォーラムAと横浜アリーナ、2016年2月にさいたまスーパーアリーナと、大型施設がが相次いで改修工事に入ったんで、それが発端となってってことですね。それでこの問題提起として去年の秋にサカナクションの山口一郎や能楽師の野村萬らが合同で会見を行ったのが大きなトピックになりまして」

司会者「話題になりましたね」

おとうと「で、この会見のメディアの記事読んだら、『僕ら会場使えなくなるんですけど』って訴えてるだけじゃないの?と思ったんですが、もっと読んでみたら『国や関係各省庁に改修時期の調整をお願いしたい』っていうのと『エンタメ企業と意見交換を交わしたい』ていうことだったみたいですね」

司会者「はいはい。2016年問題というのは会場がすぐに使えなくなりますという話じゃなくて、実演者側が危機意識を持ってますよっていう外へのアピールと、ちゃんと調整お願いしますねっていうことを申し上げたいと」

おとうと「まとめてくれてありがとう(笑) 『問題』って言っちゃうからややこしくなるんだけどね。いま直近で深刻な問題にはなってないけど、いずれ困ることになりますよ、と。これが『2016年問題』」

司会者「はい。でもここで『東京オリンピックのため』って言ってますけど、以前から改修されてましたよね?それこそ解体された国立競技場とか」

おとうと「そうそう。国立競技場もそうですし、その横にあった日本青年館もおなじく解体されました。2015年の4月でしたか」

司会者「ビジュアル系バンドの聖地と呼ばれた」

おとうと「『8時だョ!全員集合』でも使われてたみたいですけどね。あとは渋谷公会堂ですね。ここも2015年8月に閉館して解体と建て替え作業。そのほか2010年に東京厚生年金会館、2013年に横浜BLITZ、2014年にSHIBUYA-AX、2015年に青山劇場とゆうぽうとホールが閉館と。」

司会者「続々と、って感じですね」

おとうと「はい。で、この2016年問題。『首都圏の』ってなってますけど、会場が改修なり解体なりで使えないのは東京とその周りだけ?っていうのが疑問になるところなんですが」

司会者「え、首都圏だけじゃない?」

おとうと「地方はけっこう大丈夫でした」

司会者「なんだ、思わせぶりなことを(笑)」

おとうと「東京の渋公とか日本青年館みたいにガタが来てるってことで閉館したホールとか、あるいはこれから改修・新築しようかっていう話が出ているところもいくつかあるんです。その多くは60~70年代に建てられたものばかりで。その一方で、ここ20年の間に新しく建てられたホールも多いんですね。この数年の間に改修工事が終わってリニューアルオープンした会場もあるみたいです」

司会者「はー。じゃ、地方だと『2016年問題』提起側の要望でもある『改修時期の調整』が出来てるわけですね」

おとうと「あっちがダメでもこっちがあるよと(笑) 偶然なのか、連携が取れてるのかわからないですけど。それぞれ、まあうまいこと工事の時期がズレて困ったことにはなってない現状みたいですね」

司会者「たぶん前者でしょう(笑) そうするとやっぱり首都圏の問題ってことですかね」

おとうと「そうなりますね…2016年問題の会見で山口一郎が言ってましたけど、首都圏はアーティストの稼ぎ場で、そこで得たお金でもって地方公演が回せると。すると収入に直結する首都圏のライブが滞れば自分たちにもお客さんにも影響が来ますよと。」

司会者「なるほど。でも、ですよ。ホールも都内ではまだ建ってから新しいところやその数も多いし、アリーナレベルの施設も軒並み改修工事は終わってる。だったら2016年問題はもうそんなに大きな問題じゃないんじゃないんですか?」

おとうと「いや、施設の耐用年数をクリアしてるってだけなんですよそれは」

司会者「? どういうことです?」

おとうと「確かに2016年問題は施設のガタからから浮かび上がった問題なんですけど、いまってCDの売り上げが減ってるじゃないですか。代わりにライブでの売り上げが伸びてる。そうするとこれからライブ主体で動いていくアーティストがどんどん増えていきますよね。そうなったときにやっぱりライブ会場の使用がかち合っちゃうと思うんですね」

司会者「はあ。まあ確かに」

おとうと「ホールやアリーナの数はもう決まってる。でもライブの数は増やしたい。そうなると『ライブの数を増やしたい』ってなってもできない」

司会者「それって、まあ例えば1万人の会場が使えなければ5000人の会場を2日間で。5000人の会場が使えなければ2000人の会場を3日間でっていう、そういう風にすればいいんじゃないんですか?」

おとうと「理屈はそれでいけるんですけど、現実にはというと疑問ですね。アーティストやプロモーター側も『この会場でデカい仕掛けを使ってライブをやりたい!』とか、ライブに対する自分たちのビジョンや狙いがあるじゃないですか。そこで小さい会場となるとデカい仕掛けは使えないですよね。会場によっては火器の使用が制限されてたりもするし。それと、メジャーのアーティストのライブは大体が全席指定でしょ。例えば1000~2000人規模の会場でも、ライブハウスみたいにオールスタンディングだと来場するお客さんも躊躇しちゃうと思うんですよね」

司会者「あ、なるほど。それはある」

おとうと「ワンマンならまだいいですけど、ツーマンとか複数参加するイベントだと、音楽が激しめのバンドだとモッシュに巻き込まれちゃいますもんね(笑)」

司会者「フェスで時々見るやつだ(笑)」

おとうと「ほかにもドームやスタジアムを使うにしても、プロ野球を中心としてスポーツの試合日程と調整をしなくちゃならない。だからいま現在改修してるコンサート会場ないですよっていっても、昨今の音楽市場の状況やトレンドから、今後は『ライブをする会場は足りなくなる』のでは?と見てますね」

司会者「う~んなるほどね」

おとうと「で、ここまでが売れてるアーティストの話題ね。こっからはそれ以外のアーティストの話」

司会者「おっとぉ」

おとうと「大手に属して、アリーナレベルのハコでライブをする人ばかりがアーティストじゃないからね(笑) たとえば、会場が大きくてもワンマンではZeppクラスまでとかの人たち」

司会者「いわゆるロキノン系のアーティスト」

おとうと「あとはAKB、ももクロ以外のアイドルとか。これまで千数百人以上のホールとかアリーナ、ドームっていう話をしてましたけど、Zepp以下、1000人に満たないライブハウスにおける2016年問題もあるだろうと」

司会者「サカナの山口さんも言ってた『アリーナの会場のしわ寄せが来て、玉突き現象で最後にはライブハウスにも影響するかもしれない』っていうやつ?」

おとうと「や、それはさっきも言いましたけど、指定席でライブを楽しんでた人がスタンディングのライブに来るかって話で。あったとしても数は少ないと思いますね。でも、そのライブハウスでも『会場が使えない』問題は出てくると考えてます」

司会者「?玉突き以外にライブハウスが使えなくなる理由がある?」

おとうと「アリーナは結局、そのクラスのアーティスト同士の会場の取り合いじゃないですか。ロキノン系やアイドルも、同じ集客力のアーティスト同士で会場の取り合いをするってことです。ライブハウスにおける2016年問題は、言ってみればアリーナの縮小盤ですね」

司会者「はー、会場の規模が大きいか小さいかってだけで」

おとうと「発生する問題は何も変わらない。同じなんです。サカナ山口氏の指摘がほんのちょっとズレてるだけで、実際のその問題は起こり得る可能性がある」

司会者「なるほど。じゃあZeppクラスの人が箱を押えられないから、1000人規模のを2日間。1000人クラスの人が箱を押えられないから500人規模のを2日間て感じで…」

おとうと「最終的には100人規模でライブやってた人はハウスパーティーに」

司会者「なるか(笑) しかしまあ末端にまでしわ寄せが来るってことはあり得るかもですね」

おとうと「はい。そんでね、アリーナクラスのアーティストにしてもライブハウスのアーティストにしても、2016年問題の元をたどると『ライブの需要が伸びてる』ことに起因するわけですよね。CDの売り上げはここ10数年右肩下がりで落ちてる。逆にライブでの売り上げは右肩上がりで伸びてる。そうすると自然と『ライブの規模を大きくする・本数を増やして収入を得る』って考えになりますわね」

司会者「普通に考えたらね。売り上げの低迷してる、市場規模が縮小してるところに時間とお金かけたところで」

おとうと「採算が見合わない。つまり2016年問題は、CDやレコードの売り上げが持たなくなって噴出する問題なわけです。これまでに発生なかったことが今まさに起きようとしている」

司会者「ふーむ、致し方ないとうかなんというか」

おとうと「これは本当はもっと早く起こってたことだと思うんです。結局いまの音楽業界がいつまでもCDの売り上げに頼ろうとしてて、ズルズルズルズルいって2016年の今になってこういう問題が懸念されるようになったと。そこにたまたま会場施設の耐用年数の話が被ったってだけで」

司会者「遅かれ早かれ会場の取り合いが切迫してたと」

おとうと「はい。2016年問題を改めて整理し直してみたわけですけど、とりあえず今の現状と予測されるものはそんな感じですかね」

司会者「なるほど…あの、問題提起は実演者側からあったわけですが、具体的な対策って何かないものなんですかね」

おとうと「具体的になんもないっすよねえ。少なくとも何も聞こえてこない。問題提起の会見は結構大々的に報道されましたけど」

司会者「音楽業界とそれに関わるところはちゃんと問題として受け止めて動いているのか、それとも動いてないのか何も考えてないのか…」

おとうと「それでね、まあ業界側は何やってるかわかんないですけど、ちょっと自分なりに、この状況を打破する方法を考えまして」

司会者「おっ、マジですか?」

おとうと「ええ、まあ、いち個人の意見ですけど、一応ちゃんと大真面目に考えたつもりなんで、そのつもりで聞いてもらえれば」

司会者「はいはい、お願いします」

おとうと「これまでと同様にアリーナとライブハウスを使うアーティストに分けて話をしますか。まずアリーナレベルそれ以上の会場を使うアーティストから。これはやっぱり『うちは豪華なセットを使いたい』っていう考えを変えるところからかなと。もちろん先に説明したように色々な事情があって大きい会場を使いたいということなんでしょうが、まずそれを改める」

司会者「いきなり、結構むずかしいところから来ましたね(笑)」

おとうと「意識改革ってねえ(笑) 自分で言っといてなんだけど。ライブの本数を少なくするってことは、会場の手配やブッキング、それにセットや移動費をかけないってことなんで、もちろんなるべく少ないほうがいいのは確かなんですけど。でも現状そうは言ってられないじゃないですか」

司会者「まあそうですね」

おとうと「でもいま、自分が考えるより規模の小さな会場でライブをやっておけば後々につながると思うんですね。アリーナクラスのアーティストが今までより小規模のライブを行うとどうなるか。今みんなが渋ってるところに早めに乗り出せば、その分野では先駆になれる。成功すればノウハウもほかより一歩先んじることになる。これは新たなビジネスチャンスだと思うべきですね」

司会者「ふむ」

おとうと「そうすると、ホールやZeppクラスのハコを使うことになるんですが、ここもお客さんに理解を示してもらうと。ホールはまあいいとして、ライブハウスはスタンディングですから、もしライブをやるとなったらお客さんにそれに慣れてもらう。これはただの一回じゃなくて、何回かライブやらないといけなくなるでしょうが。もし不安なら、ライブハウスに座席を並べてしまえばいい」

司会者「投資が必要ですね」

おとうと「そうですね。ある程度そういうのを見越してやる。実例で言うと、最近はミスチルがZeppでライブやったじゃないですか。」

司会者「あれは話題にもなりましたよね!」

おとうと「90年代からのファンはとりあえず置いといて、若い20代以下のファンならフェス慣れしてるし、スタンディングは抵抗がないでしょう。それにミスチルレベルなら、2000人それ以下の規模のハコでやるっていったらチケットも超が付くほどのプレミアものじゃないですか。もう都内じゃなくて地方でもやるべきですよね。名阪あたりでも十分でしょ」

司会者「ホールでの全国ツアーをやるみたいですね」

おとうと「ほらほら、その気じゃん(笑) ミスチルはいまそういう方向にシフトしてるってことだよね。超売れてるアーティストが地方で2000人規模のハコを回る。その先端に彼らは立っているわけだ。アリーナクラスでライブをやるアーティストのいいケーススタディになるかもしれない」

司会者「なるほど。もっと考えを変えて、実践していけよと」

おとうと「はい、『今の状況をうまくプラスに変えろ』と。次にライブハウスでの活動を主体とするアーティストですが。ここでも結局はアリーナクラスを使うアーティストと構造は一緒ですね。Zeppクラスのは1000人以下、1000人以下のは500人のハコでと。でもアリーナと違うのは、このクラスのアーティストは比較的小さい箱でライブをやることにあまり抵抗がないことですね」

司会者「あんまり小さいと『売れてなかった時期を思い出す!』ってなりそう(笑)」

おとうと「トラウマがフラッシュバックして(笑) まあそれもあるとして(笑)でもアリーナクラスの人たちよりかは…」

司会者「抵抗ない、でしょうね」

おとうと「ね。逆に『小さいハコでやりたい!』って言い出す人もいるくらいだし。でね、まあやるはいいとして、あとはライブハウスとのブッキングになるんですけど、ここがミソになるかと。」

司会者「数が足りなくなる、取れなくなる」

おとうと「それもありますけど、もう一つはライブハウス側が使用許可するかどうかだと思うんです。古くからあるライブハウスは、オーナーさんや店長さんがこだわりを持っている人が多いでしょ?ライブハウスの敷居とかもあるし。『ウチではこういうアーティストは出しません』とか。そのハコに愛着のあるお客さんも居ますよね。『ここに○○みたいなアーティストは来て欲しくない』みたいな」

司会者「はあはあ。インディーマニアの人とか」

おとうと「でも、ここはチャンスだと思うんです。ライブハウスだって慈善事業じゃなんだから、お客さんにお金を払ってもらって運営ができる。お金が入ること自体は決して悪くない。もちろん僕もそういったライブハウスの文化は好きですし残していきたいと思ってる。でもガチガチに固められたプライドで貧乏になるよりかはよっぽどマシだと思うんです。変に意固地になって、いま目の前にあるチャンスを逃すのはもったいない」

司会者「うん、うん」

おとうと「頑固な態度をとるところがある一方で迎合するところも出てくるでしょうけどね。人気のないアーティスト、アイドル、なんでも来いよ!っていう(笑) それとこれもアリーナクラス同様で、規模の大きなライブハウスやフェスにしか行ったことないっていう客にライブハウス文化に慣れてもらうことにもなると思うんです。最初は小さいハコに「うわあ…」って思うかもしれないけど、アーティストはもちろんのことライブハウス側も、それに慣れてるお客さんもみんなで新規のお客さんを出迎える。そうすることでライブハウスも、その文化も守られることになっていくと」

司会者「大変かもしれないけど、悪いことじゃない」

おとうと「しかもたとえばライブハウスの稼働率が上がるとするじゃないですか。営業日が増える。会場は使わなくても維持費が発生しますからね。使わないよりかは使ったほうがいい。それに稼働するとその周りの地域も潤うわけですよね。移動の電車やバス、タクシー。飲食店なんかは特に。その日ライブに来たお客さんが来ますから。だからそれを見ても悪い話じゃない」

司会者「むしろ、良い」

おとうと「Win-Win(カヨコ・アン・パタースン口調)ですよ」

司会者「あんたもシン・ゴジラにやられてるね(笑)」

おとうと「ライブハウスに限った話じゃなくてアリーナクラスでも同じ。しかもそっちのほうがお客さんの数は多いし、その分儲けが会場も周りの店、インフラも大きいものになる。人がどっと増えるのは大変かもしれないですけど、それを差し引いても、うまくやればいいことづくめだと思うんですよね」

司会者「なるほどね~」

おとうと「ライブハウス側はここでどうするかですよね。例えばライブハウスの稼働率を上げます、新規のお客さんにたくさん来てもらいますってなったときに、サービスの仕方をいままでと同じにしていいのかどうか。来客の対応やスタッフの雰囲気を良くしていけば『このライブハウスいいね』って思ってもらえるかもしれない。逆に今までと同じ対応なら良く思われないかもしれない。サービスの質を上げることも重要になると思う」

司会者「ふむふむ。お客さんに次も来てもらうためにはってことですね」

おとうと「あとこれはアリーナクラスの話になるかな。もしハコが取れなかったら野外ライブをやればいいんですよ」

司会者「簡単に言うねえ(笑)」

おとうと「いやいや、大変なのはわかった上で言ってる。野外ライブお金かかりますからね。大型のスタジアムライブだとセットに2~3億円、去年の長淵剛の富士山麗ライブは10億かかったなんて言われてますし。でも一回デカいのをガツンとやれば儲けになるはずですよ。長淵のはグッズ販売が好調だったみたいだし、そういうライブは映像化されますしね。回収の方法もある」

司会者「なるほど」

おとうと「ガチのファンなら場所がどこだって行くでしょうし。今年の冬に行われるAIRJAMも、会場は福岡ドームですけどチケットはほとんど完売で主催者側は追加席を考えてるって話みたいですから。」

司会者「キッズすごいなー(笑)」

おとうと「まあ野外ライブで出てくる問題としてはやっぱり近隣への影響とゴミ問題ですね。演奏中の音や訪れたお客さんの行動。ここもうまくやればプラスにつながるはずです。演奏の音は主催者側になんとか頑張ってもらうとして(笑)、ゴミ問題は例えば京都大作戦なんかはNOゴミ運動を推進して成功させてますし、それがSNSで拡散されればイメージアップになる。それを見た人が『ああ、○○の客ってすごくいい人たちだな』ってなって、アーティストやそこに参加してた人たちのイメージも良くなる。実際の会場でもお客さんの一人ひとりが節度のある行動を心掛ければ会場の近隣の人たちからも良く思われるだろうし」

司会者「アーティストの姿勢やファンの心構えが重要になってきますね」

おとうと「うん。一度成功させてしまえばまたその会場が使えますしね。…もし失敗したらイメージも悪くなる、会場も使えなくなるの二重苦が待ってますけど(笑)」

司会者「リスクはありますよね」

おとうと「はい。でもリターンは大きいですからね。それに勝算がある。僕がなんでここまで言うかっていうと、野外ライブに夏フェスのやり方が使えるからなんです。会場のセキリュティ、動線の作り方、周りの飯屋の手配、トイレの設置まで、すべて夏フェスのノウハウを活用できる」

司会者「なるほど!」

おとうと「いままでに全国でたくさん野外フェスが行われてきて、フジロックやサマソニ、ロッキンジャパンなど歴史のあるフェスがいくつもある。その『成功したやり方』を使えばいいだけ。アーティスト側がフジのSMASH、サマソニのクリエイティブマン、ロッキンのロッキンオンに教えを乞うような形で。そういった運営が『新しく野外ライブをやりたいんですよ』っていうところにコンサルティングに出たっていい。新たなビジネスですよ。警備会社も、昨今話題のBONZとか(笑)、信頼のおけるところたくさんありますから、野外ライブが増えれば全国に支部を置いたりして増員なんてことも視野に入る」

司会者「はあー、なるほど」

おとうと「セットを組み立てる会社も仕事増えるでしょ。いろんなところが潤うようになる。悪い話じゃないと思うんですけどね。あと、もし野外ライブをやるお金やライブハウスが無かったら、いまクラウドファンディングあるでしょ?あれを使えばいいという。音楽業界もいまではたくさんクラウドファンディングを有効な手段として使うケースが増えてきましたし。ファンも好きなアーティストのためならお金を投資してもいいと思ってる。もしやるとなったら、たぶん野外ライブのスタート資金とかライブハウスの設置とか、これまでで一番お金を集めるプロジェクトになるでしょうけど(笑)」

司会者「はあはあ。いやー、そこまでは考えてませんでした」

おとうと「ね、いい考えでしょ?(笑) リスクだなんだって、どんなことだってリスクは付くんだから、やってしまえばいいと思うんですよ。それにこうやってアリーナクラスのアーティストとその周りも、ライブハウスクラスのアーティストもその周りも、みんながそれぞれの場所で連携しあって頑張っていけば、業界全体が盛り上がっていくかもしれない。そうすればどんどん良い方に、新しい方向に意識も行動も向かっていくと思うんですよね」

司会者「なるほど。いやー、2016年問題に始まって最後は音楽業界のことになり、今回いい形に話が進んでいきましたね」

おとうと「三回目にしてやっと(笑) 内容も逆転の発想というか、前向きなものでしたしね、僕も気持ちよかったです(笑)」

司会者「ははは」

おとうと「日本人って問題をただ解決する、『対処』ていう方に持っていきがちですけど、うまくやってプラスに変えてしまった方がいいと思うんですよ。『失敗はチャンス』っていうアメリカの意識を見習って。転んでもただでは起きぬとね」

司会者「なるほど…それではそろそろまとめていただけますか」

おとうと「2016年問題は確かに真剣に考えなくてはいけない問題だけど、意識を変えてみんなで連携していけば、仕事も増えるし儲けが出るよと。会場が使えなくなりそう、でも悪い方ばかりに考えなくてもいいよ、と。みんなで問題意識も解決方法も共有して音楽業界を盛り上げていきましょう。こんなところですね」

司会者「ありがとうございます。では終わりになりますけど次の話題は?」

おとうと「いまのところないです」

司会者「あら、未定?(笑)」

おとうと「はい、まあこの記事の書き方自体もともとパクリですからね(笑) 何か思いついたらまた書いてみようと思います」

司会者「では対談のネタが出来たらそのときに更新をお願いします」

おとうと「本家がスルーする限りやりたいと思います」

怪作にして快作 ~映画「シン・ゴジラ」を観た~

2016.08.13.Sat.22:20
観ました。
メンズデ―の割引で。
久しぶりのゴジラの映画作品であり、庵野秀明監督作品であるということ。
そして「早くエヴァの続編をつくれ」などと言われたりなど、いろんなものが相まって
不覚にも話題になってしまった作品であった。
自分もそういった評判や周りの人気ぶりに軽率に心動かされ、劇場に足を運んだのでありました。

しかし内容は期待通りの面白さ!
観たままの興奮とその勢いそのままにPCを目の前に臨んでみた次第。
映画作品としての感想と評価と、『シン・ゴジラ』の考察の
大きく二つに分けた内容となっております。

それでは以下







IMG_9073.jpg








物語は東京湾内での一艘のボート探索から始まる。平成明朝体W9のテロップ付きで。
人気のない船内にはきちんと揃えられた靴と意味深な折り鶴がひとつ、ちょこんと置かれていた。
海上保安庁の隊員が「異常なし」とみるや、突如爆音とともに海上に波が立ち、船が揺れ動く。

アクアラインはトンネルに亀裂が入り海水が侵入したため封鎖。
首相官邸にもこの事故の一報が入る。
会議室に向かうのは内閣官房副長官・矢口(長谷川博己)と秘書官の志村(高良健吾)。
その後も続々と首相および閣僚たちが官邸に集まる。
だが会議で行われるのは"予定調和の"「災害安全対策の協議」だった…。

最初の20~30分ほどは「おじさんたちによる会議」が延々と続いていく。
会議の直前、矢口は事故の原因と思わしき「海中から伸びた巨大な触手」をとらえたネット動画を発見する。
矢口は二度、「この事故は巨大生物によるもの」と提言するが、いずれも却下。
エリート政治家の内閣総理大臣補佐官・赤坂(竹野内豊)に「会議をかき回すな」「総理レクは結論ありきの既定路線」と諭される。
そのあいだに巨大な触手とおもわれるものが海中を東京都心に向けて移動。姿は変わっているようにも見える。
恐怖が徐々に近づいていく。
事故と未確認生物発見の現場の緊迫感と、官邸での間延びしたような会議の倦怠感との対比が印象的。
災害対策会議や政府の会見…お上と現場との肌感覚のアンマッチなど、おそらくこれが現実世界で
"実際に起こっているそのもの”であると思わせるに充分足るシーンだった。

映画のパンフレットには「3.11の時の資料が膨大にあったので読み込みました」
「脚本の時系列に沿って、その省庁では何をするか、その時大臣はどこに待機するか、劇中の会議中の情報の伝達の仕方は正しいか、各大臣の所感に違和感はないか、などを確認した」とある。
庵野は徹底して「リアル」を映画に盛り込んだというのが良くわかる。
そしてそのリアルの追求はキャスティングにも現れている。

物語の主役級となる人物は先の三人のイケメンであるが、
首相や官房長官以外の閣僚、都の政治家たちは現実の誰かを思わせる風貌ばかりだ。
内閣総理大臣は大杉連、官房長官は柄本明などネームバリューがあり「見たことのある顔」の役者がそれぞれ好演している。
(柄本明の眼鏡のかけ方…!)
しかしほかの顔ぶれを見ると、内閣府特命担当大臣は甘○元大臣に似てるし、総務大臣の名前は河野。見た目も某河野さんぽい。
東京都知事は前の前に職務についていたいのせさんだし、臨時外務大臣はタモガミにもほどがあるだろうといった具合のそっくりさんぶりだ。
これは映画の中の「お笑い」の部分でもあるが、それと同時にやはり
観る人に"リアル"を与えたかったということだろう。
防衛大臣は女性(余貴美子)で、そっくりさんではないがどうしてもタイムリーなあの方の顔が思い浮かぶ。
スタッフロールにも名を連ねていたし。
強烈な目力を感じさせるくっきりと引いたアイラインが、いかにも「女性政治家」を彷彿とさせる。

学者たちは「あんな大きな生物は自重に耐えられず陸上には上がれない」と話すが、
巨大生物はあっさりと上陸。
我々の前に見せたその姿は、頭部は深海魚の「ラブカ」を思わせ、体は四足歩行の両生類のような、何とも異様な造形だった。

巨大生物は蒲田を通り品川方面へ。
ボートを車を跳ね飛ばし、マンションを薙ぎ倒し、東京の街を突き進む。
閣僚はこの危機にどう対応するか、巨大生物のせん滅か捕獲か、あるいは追い返すか。
せん滅となれば市街地での武力攻撃を認めなければならない。
周りの閣僚たちにアドバイスされながら災害対策を打った総理大臣は
ここでも周りの閣僚たちにアドバイスされ、またしても頼りなく決定を下す。
「災害緊急事態の宣言」
このシーンはいずれの閣僚にも、映画を観ている自分たちに問いかけられ、判断を要求されていうような錯覚に陥る。
まるで自分が総理大臣となり今まさに重要な決定を下さねばならなくなったかのように。

自衛隊が「ダバ作戦」と称した対ゴジラせん滅作戦を展開したシーン。
ここが第二の大きな「リアル」だ。
自衛隊保有の戦車や戦闘機を使用した軍事作戦さながらの戦闘シーンには迫力がある。
第一波、第二波と徐々に相手を叩いていくこの作戦は庵野自身が考えたものなのだが、
実際に作戦内容を確認した防衛省がその綿密さに驚いたのだとか。
兵器の使用や作戦の裏付けに防衛省が協力していたそうだが、
"本当に戦闘が起きたときはこんなふうになる"と思わせる場面であり、
リアルの追求はここでも貫かれていた。

自衛隊の勢力を集結させてもゴジラに歯が立たなかった。
多摩川を超え再び東京に上陸したゴジラは目黒までやってくる。
遂に米軍が攻撃を始める。
同時に対策本部の首都圏からの移動および閣僚以下人員の避難も開始。
爆撃機から地中貫通型爆弾が投下され、ゴジラに命中。
背中をえぐって爆発し、ダメージを与えると歓声が上がった。しかし
ゴジラの背中が赤紫に変わり、口が大きく開く。そして…

ゴジラの口から炎が放射され、東京の街並みは火の海と化した。
ビルが紫色の熱線で焼かれ切り倒され廃墟と化した都心の風景。

おそらく東京で生まれ育ったあるいは東京に何らかの思い入れがある人は
あの破壊されていく東京の街並みや逃げ惑う人々を観て何か心に来るものもあるのだろうが、
地方の田舎育ちの田舎モンの目には「あー、ぶっ壊されてんなー」と思うだけだった。
官邸前で張っていた記者が「ここでも地方は後回しなんですね」と言っていたが
それは観ている自分も別の意味でそう思っていた。

トップを失った日本は緊急に内閣を組織。
海外周遊中だった里見農水大臣(平泉成)が総理大臣に任命。
矢口は対策本部の副部長、赤坂は官房長官代理に就任。
新体制でゴジラの解明とせん滅に向けて走り出した。

そんななか米軍がゴジラ対処のために熱核攻撃の使用を検討していることを
米国特使カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)から知らされる。
ゴジラの活動開始と、熱核攻撃開始までのタイムリミットが近づく。
そしてついに血液凝固剤を投与してゴジラを倒す方法とその実行の目途が立った。
せん滅作戦名は「ヤシオリ作戦」。

隊員とともに現場へと赴く矢口。
作戦決行。
まずゴジラにミサイルで攻撃を開始、熱戦を吐くだけ吐かせる。
動きが止まったところで足を爆弾を乗せた新幹線で攻撃、体を倒す。
ポンプ車が集結し口の中から凝固剤を投与するもゴジラが目覚めて失敗に終わる。
だがすぐさま第二波の攻撃を開始。
爆弾をのせた電車がまたも足元を狙い着弾。同時に近くのビルも破壊してゴジラに浴びせる。
転倒するゴジラ。
ポンプ車出動。再び凝固剤の経口投与の開始。
全てが充填し終え、ゴジラが目覚め、立ち上がる。
万事休すか…その瞬間、ゴジラは凍り付いたように静止した。
凝固剤が効いたのだ。
これによって、ヤシオリ作戦は完了。ゴジラのせん滅に成功した。

物語の最後の最後、固まったゴジラの尻尾の先端がアップになって終わるけど、
あれはホラー映画やパニック映画によくあるラストと同じじゃないの?
「実はこれで悪夢は終わりじゃない」っていう最後のオチ。
別に「庵野、やりやがった!」ていうマンセー的なものではない気がした。

物語は大きく、完全体のゴジラが東京を火の海にしたシーンのその前後に分けられる。
閣僚各位と自衛隊がゴジラに対して対策を講じていった前半と、
都心が壊滅したそのあとに残された人々でゴジラせん滅へと動く後半である。
おっさんおばさん、あるいはおじいちゃんがいなくなって、
矢口や赤坂のような若手が目の前にある誰も直面したことのない大きな問題に立ち向かっていく姿は、
「未来は若い君たちが創っていくんだよ」と言われているかのようである。

物語"後半"。
矢口はゴジラの対策本部・「巨大不明生物災害対策本部」(巨災対)の実質的な統括を任されることとなる。

ヤシオリ作戦の陣頭指揮を取るために現地へ赴くことに決めた矢口に、
同僚である政調副会長の泉は「10年後に総理大臣になるんじゃないのか?」と訊く。
それに矢口はこう答える「10年後にこの国が残っていることが大事さ」

ゆくゆくは自分も政治家としてその高みに立ち、
閣僚として名を連ね、果ては総理としてこの国を良くしていく。
出世には興味がないという素振りは見せていたが、
それまでの矢口の頭の中にはそういった思いが何度も繰り返されていたはずだ。
しかし政治は、特に閣内は予定調和だらけであることは何遍も観てきて知っている。
そして上には、自分のすぐ近くには赤坂という男がいる。
彼が官房長官代理となったのは実は実力者であった里見元農水大臣の采配だったという。
下からの人望は厚く、上からの信頼は厚い。
赤坂は次の総選挙に立候補しその足場を築いていこうという。
その男を目の前にして矢口はいつしかこう思うようになった。
「自分は総理大臣になれないのではないか?」
そして「総理大臣になることで、果たして国を良くすることができるのか?」

巨災対は今までになく、部員ひとりひとりの結束が強くなっている。
それは全員がゴジラの解明と、それを行うことでこの国の危機を脱することができるという強い希望が見えたからだ。
みんなの思いを汲み上げ、彼らをまとめあげる存在として動き回り、目的を形にしていく。
そしてその目的達成の暁は、日本という国を危機から救うこととなる。
活動を通じて矢口はひとつの思いを抱いた。
「自分の仕事はこれかもしれない」

ゴジラが一度海に帰ったのち、破壊された街を大臣以下が現地視察したシーンがあった。
チラッと見ただけで「次は報道対応だ」とぞろぞろと引き上げる一団を尻目に、
矢口は廃墟の街並みをひとり呆然と立ち尽くし静かに手を合わせた。
これは矢口が国民と同じ目線に立っているということの表れだ。
このとき本人は気付いていなかったが、チームを率いて現場での対応に当たるというのが
実は彼の能力を一番輝かせる職務だったのだ。
対策本部を治める経験を通じて矢口は自分の才能に気付き、やるべきことを見つけた。
自分が日本のためにすべきことはなんなのかを。

立ち尽くしたゴジラを眺めながら矢口のラストの言葉「今はまだ辞めない。これで終息してないからな」には
様々な思いや感情が詰め込まれている。
「瓦礫の山々」「放射能の除去」「東京からの避難民360万人の帰還」「今後の国際社会との関わり」
「復興」…
やらなければいけないことが山積している。
まさに我々が直面して生きている"未来"ではないか。
立ち向かったゴジラは"虚構"であるが、作中で描かれていたのは紛れもない"現実"そのものだった。
最初から最後まで"リアル"は貫かれていた。
最後の言葉は矢口の静かな決意であり、
最大の危機を脱したとしてもその先の未来があるということであり、
またその未来は君たちの仕事であるという
スクリーンの外を飛び出しての我々に向けてのメッセージであった。


映画を観終えると「『シン・ゴジラ』って災害対策モノなの?」っていう意見をネットで見たのだが、
「はい!そうです!」と自身を持って言える作品だったことがわかる。
"『シン・ゴジラ』は災害対策モノです"!
単なる「怪獣映画」という枠だけではとてもじゃないがくくりきれない。
これは強く推していきたい。

そしてエヴァ同様、『シン・ゴジラ』もまた庵野の独壇場、真骨頂であったということ。
救いようのない現実と人間の裏にあるドロドロとした内面…
見たくないものを目の前に突き付ける、臓物を見せつけるという点は
『シン・ゴジラ』においても発揮されていた。
またその映画の見せ方は、ゴジラを制作した先人たちへの敬意を表したまさに初代ゴジラそのものだ。
全く新しいゴジラ作品でありながら、"ゴジラ回帰主義" "ゴジラ原理主義"を貫いた作品であることは事実であり、
それを同時に行ってしまった庵野の手腕にも脱帽しきりである。
新時代のゴジラ、『シン・ゴジラ』である。

本作品における"臓物"とは、"描かれた日本のリアル"にほかならない。
庵野が言った「ゴジラが存在する空想科学の世界は夢や願望だけなく、現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります」
の言葉通り、ゴジラは"日本そのもの"を映し出していた"鏡"であった。
確かにいまの日本において、想像を絶する災難が身に降りかかったとしても、
やれ会議に次ぐ会議、お上の判断を仰ぐやら、法律上あっちを立てればこっちが立たないなど
なんとも会議、書類、クレームの配慮とそんなことを考えながら動いていくしかないのが現実だろう。
そして政府の判断や対応が、いったい誰の発案で、誰が責任者なのかという主体性の無さも特徴だ。
そりゃ志村に「こんなことやってる場合かよ」と言われるし、カヨコには「あなたの国は誰が決めるの?」と言われるわけだ。
あの前半の政府のゴジラへの対応がまさに今のニッポン。
ここは"第三のリアル"といってもいいかもしれない。

それを言うと、あの総理大臣が危機管理センターに来た時や、
都知事が都の危機管理センターに来た時の「全員起立」も
なんだか"危機のときでさえもいちいち規律を守る日本"を表したシーンのような気がする。
我々日本人にはあまり変だとは思わないシーンかもしれない。
『シン・ゴジラ』、庵野が監督したということもあり、世界100か国以上に配給されるとのことですが
"ここがヘンだよ日本人"みたいな感じで奇異の目で
なんとも日本を象徴するかのようないち場面として、海外のお客さんからは見られるのはないかと思う。

映画を観た人の意見では「早口のシーンをどうにかしてほしかった」という旨のものがあったが、
あれは早口で良かった思う。
話している内容がそもそも専門用語のオンパレードであり、あれに時間を使って丁寧に説明を加えたところで
見ている人の大半は「???」のままだと思うからだ。
それだったらあえて早回しのように送ったほうがいい、というのが庵野の考えではないか。
映画の中で重要なのはそこではないし、公開は夏休みで"怪獣映画"ということで子供も観に来る。
観る人を退屈させるのは良くないと。
エヴァの「Air」でも休憩タイムを作った庵野なので、そういう采配だったということは充分に考えられる。
これが製作費の関係で…ということではなくて"あえてそうした"ということだと思いたい(笑)

先に「未来は若い君たちが創っていくんだよ」と言ってしまっていたが、
かと言って前半のなすこと全てがいい方向に向かなかったおじさんたちが決して情けなかったというわけではない。
劇中では失敗ばかりが積み重なったが、"本気"だったはずだ。
本気でこの危機に対面し、国のトップとしてその職務を全うしていた。
総理大臣・大河内(大杉連)の顔は、みるみるうちに覚悟をきめたまさにリーダーとしての顔になっていった。
彼らとて手を抜いてゴジラの対応に当たっていたわけじゃない…とフォローをしておこう(笑)

本編において
ラブロマンスなし。
登場キャラクターの過去も振り返ることなし。
ありえないようなお涙頂戴のセリフもなし。
それが無くてもおもしろい。
「これをやればウケるんでしょ?」というヒット映画の法則をなかば無視した作り方は、
去年、2015年に話題と人気をさらった『マッドマックス ~怒りのデスロード~』と同様であるのもとても興味深い。

しかも『シン・ゴジラ』は公開前の映画業界内では評判が芳しくなかったのだそうだ。







シン・ゴジラは映画関係者から不評!?そこには邦画不振の原因が詰まっている…?

まあ今までのヒットの法則に則っていないのだから評判が良くないのも当然か(笑)
興業的には結果オーライということになりそうなわけだけど、

「ゴジラ FINAL WARS」(04)以来12年ぶりに東宝が製作した最新作「シン・ゴジラ」が、7月29日より全国441スクリーンで公開され、土日2日間で動員41万2302人、興収6億2461万0700円を記録する好スタートを切った。 -映画.com 映画ランキング


※順調なようです

『シン・ゴジラ』が公開2週目にして累計動員145万1,404人、累計興行収入21億5,063万5,500円を記録、早くも興収21億円を突破し、2週連続で1位をキープした。 -『シン・ゴジラ』がV2!快進撃止まらず興収20億円突破! /シネマトゥデイ



やりたいことやって回収するものを回収してるわけだから、
予定調和の映画よりも俄然チャレンジングな方向で攻めた『シン・ゴジラ』のほうが個人的には好きだし支持したい。

あとは『ニッポン(現実)VSゴジラ(虚構)』のキャッチコピーだ。
作品の内容を端的に表し、かつ観る人に「観に行こうかな」と思わせるのがキャッチコピーの役目。
これまでのやり方で巨大不明生物という新たに発生した問題と立ち向かい、
新しいやり方で新たに発生した問題に立ち向かう。
まさに、ニッポン対ゴジラ。
ここまで物語の内容を短く明確に表し、かつ文字通り"キャッチ―"に仕上げたキャッチコピーを久々に目にした気がした。
『シン・ゴジラ』は今年の映画界の話題をさらうだろうが、
キャッチコピーも今年の大賞(?)に確定でいいと思う。

映画業界的にははっきり言って「奇」なるものであったわけで、まさしく「怪作」だ。
しかしその前評判(映画業界の評判も世間一般の我々の評判も含め)を覆して
内容は素晴らしい、興業的にも成功を収めたとなれば、これを「快作」と言わずして何と言おうか。

怪作にして快作。
『シン・ゴジラ』はそう呼ぶにふさわしい。


ここまでが映画作品としての感想と評価。
ここからが『シン・ゴジラ』の考察。

映画の内容についてはもうさんざん言ってしまったので、
ここでは"『シン・ゴジラ』に登場するゴジラとはなんだったのか"ということを話したい。

放射能を食い物にして生きている巨大生物かと思われたが
食べているというより熱核エネルギー変換を自身の手にしてしまっている生き物だということ。
また映画の内容からするにゴジラの正体は、
実は冒頭のボートの所有者はゴジラ研究家の牧悟郎氏のもので、
その牧氏がゴジラの正体であるのが濃厚ということ。
本編ではそれ以外にゴジラの正体はほとんど明かされることなく、牧悟郎の正体もよくわからないままだった。

あと分かっていることと言えば異様な成長スピードの変態を繰り返す生き物ということか。
第一形態から第四形態まであり、触手のような尻尾のような形の形態から両生類、次いで肉食恐竜のような形をとり、
第四形態は我々が良く知る「ゴジラ」の形の形態となる。

このゴジラを見てふと気になったことがある。
今回のゴジラは全編フルCGということだ。
スタッフロールに「野村萬斎」と出ていたので、
ゴジラの歩行や行動に関してはモーションキャプチャで実際の人間の動きを取り入れたということだろう。
東京を二足歩行で進撃するときの内また気味のすり足に「能」が垣間見えたので、これには納得した。

しかし納得できなかったのが「尻尾の動き」である。
今回のゴジラはいつになく尻尾の先を上に向けて、なおかつ尻尾自体がヘビのようにウネウネと動いていたのだ。
犬や猫のような軽くふわふわとしたものならまだしも、あの固く太く、重量級の尻尾である。
「重力」と「空気抵抗」というものがあることを知らんのか!
と思わずフルCGであることをいいことにやってしまったような動きを観ていてそんなことを思ってしまった。
これまでのゴジラの尻尾の動きは、痛みや怒りの感情をあらわにした際に地面にバシバシ叩きつけたり、
攻撃する際に遠心力を使って勢いよく相手に殴りつける"武器"として使うといった、
動くことはあってもそれは直線的で、「ゴジラ本体の意識下」にあった動きだった。

だが今回の尻尾は違う。
「ゴジラ本体の意識下」ではなく、まるでゴジラ本体とは別の、「自分の意思で動いている」かのようだった。
そこで一つ思いついた。
「尻尾には、本体とは別にもう一つの"脳"が存在する…?」

この考えには裏付けがある。
93年作「ゴジラVSメカゴジラ」において、ゴジラには腰部分に「第二の脳」が存在するという設定が
東宝によって新たに付け加えられることとなったからだ。
本編でメカゴジラはゴジラの腰(第二の脳)にショックアンカーを打ち込み、電流でゴジラの歩行を停止させるという攻撃を行っている。
(そして失敗している)

ならば尻尾部分に脳があるという設定があってもおかしくないはずだ。
尻尾が本体とは別に独自に動き、先端から熱線を吐けるのも、脳がありそれが働いていたからとすれば
これは無理な話ではない。
あのラストシーン、尻尾部分の先端がズームアップされるという超意味深な終わり方をした時に
やっぱりそういうことか?と思ったりした。

が、そんなことを思っていた明けて次の日、とんでもないことに気付いてしまった。
「あの尻尾って、第一形態の触手そっくりだよなあ…」
このときふと思った。
もしかしてあの触手は「尻尾そのものだった」のではないか?と。
ゴジラ第一形態の登場は海中から触手(尻尾?)のみが顔を出してウネウネ動くというもので、
海中でどうなっているかわからなかった。
だが第二形態、第三形態と、徐々に"生物の進化の過程"を辿っているとしたら…?

この"進化を辿る"という考えはロックバンド・オワリカラのタカハシヒョウリさんのブログから拝借したものなのでそちらを参照頂きたい
これよりシン・ゴジラ超ネタバレ10000字の儀を執り行う! ※こちらも素晴らしい考察!)

この考え方に基づくと、あの第一形態の触手は"どこかから生えている"というものではなく、
イモ虫…ワームのような形の生き物ではないかと。
ワームが自分の体の一部を海上にのぞかせて動いていたと。
そしてつまりそうするとワームは触手であり、触手は尻尾であるということになる。
尻尾はその後の形態でも存在し続け、第四形態でも存在している。
重ねて言うが、第一形態のワームは第二~第四形態の尻尾そっくりだ。
つまりこれは、
ゴジラの"本体"とは"第二の脳"が存在するあの「尻尾」であるかもしれないということなのだ…!

どういうことか。
第二形態では四足歩行の水陸両用の生物となったが、
ワームの純粋な…蝶の幼虫からサナギに変わり、成虫となるような完全変態ではなく、
あれは実は第一形態のワームの片一方からニョキニョキと"生えてきた"ものということだ。
つまりは第二形態以後のゴジラの姿かたちは、あの頭も首も、体も四肢も、
すべては「本体」が海中を進み、陸上に上がり、歩行を進め、
破壊行為をうまく行うための"手段"だったのである。

常識的にはにわかに考えにくいことである。
だがそれは我々の思い込みがそれを阻害しているだけだ。
尻尾とは"本体"から"生えている"付属物だ、という認識が、だ。
しかし進化をし続けているのは誰しおうあの「ゴジラ」である。
人智を超えた"完全生物"だ。
尻尾(と思われるもの)が"本体"であれば、その逆に四肢や体が"付属物"になることは容易に想像できるはずだ。
我々の常識を超えるなどゴジラにとってはたやすいことなのだ。

パンフレットはゴジラ本体(と思われるもの)と尻尾(と思われるもの)の先端が表紙になっているが、
見ようによっては尻尾の先端には白の眼球に黒の水晶体の「目」が付いているようにも見えなくもないような…

他の方のブログ等ではあれが新たな人型生物か、ゴジラの子供か?といった考察もなされているらしい。
確かに、二回目観たら、一度ゴジラの装甲(皮膚)の一部が外れかかるシーンあるし、
ラストシーンの尻尾の先端が糸がほつれたような感じになってて、
その中からエイリアンみたいなのが出かかってたから
ゴジラ第五形態か、それとも新たなゴジラ誕生か?ってのはわかる。

もしこれが正解だとして、その何かがおそらく今から生まれるのではなく、
生まれそうになって出かかってたところをあと一歩のところで固まってしまった、というところじゃないかな
…と思いたいが…相手はゴジラ………

うおおおおおお庵野、そういうことなのか?
あのラストの尻尾のズームとは、
さっきまで「ホラー映画によくあるラスト」程度に思っていたがそうではなったのか!?
実は牧悟郎の意識がまだあの尻尾には組み込まれているということなのか!?
そしてあそこからまた何かが生まれてきてしまうのか?
それとも本体から生えた"付属物"に新たな変態がおきようというのか!?
もしかすると矢口の言った「これで終息したわけじゃない」の言葉には隠された真実があるということなのか?
「凝固剤で固めただけではゴジラを倒したことにならない」ことをすでに知っているとか、
あの巨災対が奮闘するシーンでは語られなかった裏の事実が対策本部の部員には既に共有されていたりするのか!?
ああああああああああああああああああああああ



やめよう。

あやうくまた


となってしまうところだった。

まああくまでここまで言ってきたことは自分のただの考察なので、
これが本当でもなんでもないし。

だが自分は、これがゴジラの存在であったと確信しておく。
そしてあの尻尾の先端から出てきたアレは牧悟郎本人の姿だったと。
それだけにしておこう。

その先は…
もし続編が出るとしてもエヴァのあとになるだろうから、何年先になるか分かったモンじゃない。
だからと言って続編をほかの人に任せることは庵野本人が許さないだろう。
ほかのゴジラシリーズならほかの監督でも撮れるだろうが
『シン・ゴジラ』の続編は庵野にしか撮れない。
そもそも続編が出るかどうかもわからない。

なので、このことは今は考えるのはやめにして、
とりあえずこの衝撃作のみを楽しむことに徹しましょう。
自分はまだ一回しか見ていないので、
また観に行きたい所存である。
それはあれやこれやの確認のためであり、
もしかしたらまた新たな発見がなされるのでないかと思っている。

あと、ゴジラ第二形態が川をさかのぼっていくシーンで
「ジャック&サリー動物病院」の看板が見えた。、
「ジャック&サリー」とはティム・バートン原作のディズニー映画『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』に登場する主役の二人の名前。
『ゴジラ』と『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の関連する事項というと
"昔ながらの特撮技法に最新のデジタル映像技法を取り入れ製作された"くらいしか
思い浮かばないんですが、
なにかこの二つの関連性を知っている人が居たらだれか考察してください。

そして、『シン・ゴジラ』最大の謎はゴジラの正体ではない。それは…





KREVAどこにいた?
※KREVAいた!
「全車撤退!全力走行!!」
KREVAはボスキャラじゃなかった!
本当の謎、シン・ボスキャラはスチャダラパーのANI!

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※8/13追記
どうやら早口のシーンは、元を辿ると東宝からの要請であった模様。それはそれは。
しかし庵野も「できますよ」って言っちゃうというまあなんとやら(笑)

普通で言えば3時間分の脚本になって、いよいよ本当に監督をお願いする時に、あらためてぜひやってください、でも2時間にはおさめてくださいと言ったら、わかりました、撮れますよ、なぜなら早口で言わせるから、と答えました。たぶん、1.5倍くらいの速度でしゃべっていて、だから入ったんでしょうね。 - 東宝はなぜ『#シン・ゴジラ』を庵野秀明氏に託したか~東宝 取締役映画調整部長・市川南氏インタビュー~(境治) - Y!ニュース

TOO YOUNG TO DIE 的な何か

2016.07.12.Tue.21:00
注 映画の内容については何一つ書いていません。映画本編も見ていません。



去る6月25日、映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』が全国映画館にて公開された。

tooyounhtodie!

映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』公式ホームページ



17歳でこの世を去った大助が、大好きなクラスメイトにキスしたい一心で、赤鬼と一緒に地獄からの生還を目指して大奮闘するという、宮藤監督らしいバカバカしくも清々しいストーリー。



主演・長瀬智也(TOKIO)、神木隆之介、脚本監督・宮藤官九郎と話題を振り撒いたこの一作。
私はもろもろの関係でまだ観てないし、これから観るのかもわからんのですが。
タイトルになっている「TOO YOUNG TO DIE」というのはわかる人が見れば一発でわかる。
アメリカのロックバンド・イーグルスの『James Dean』という曲の一節から取っている。

Too fast to live,too young to die, bye bye
あんたは早く生まれすぎた、若すぎる死だ、バイバイ





もともとはイーグルスの24歳の若さでこの世を去った米俳優ジェームズ・ディ―ンを歌った曲の歌詞の一部だったのが、
言葉が独り歩きしてジェームズ・ディ―ンを指して表す言葉になり、
その後も音楽業界はじめとした各分野で「Too fast to live,too young to die」のフレーズが用いられるようになった。
パンクロッカー・パンクキッズにはおなじみのファッションブランド「ヴィヴィアン」の前身も
「Too fast to live,too young to die」という名前だった。
日本ではなぜか[Too fast to die」と略された形でこの言葉が流布されてたりする。

で、このフレーズもGLAYの『1988』という曲の歌詞に使われてたり
気志團の2004年発売の3rdアルバムのタイトルになってたりする。
もちろんどちらもこの言葉の由来を知らなかった筈はない。
だがやはり自分にとっては彼らの作品の発表以前にリリースされた曲、
↑THE HIGH-LOWS↓の甲本ヒロト作詩作曲『Too Late to die』なんである。



そうだオレは ブリキのコインだ
レートのない ブリキのコインだ
Too Late To Die ペテン師の
Too Late To Die 遺伝子を
Too Late To Die バラまく
Too Late To Die


イーグルスの『James Dean』も曲中で「Too fast to live,too young to die, bye bye」をリフレインしているのだが、
『Too Late to die』もタイトルでもある「Too Late To Die」を何度も繰り返して歌っている。
この曲もイーグルスを元ネタにしているのがわかる。

ロックンロールと言えば、その昔から若さとともにあった。
ローリングストーンズのオリジナルメンバーであるブライアン・ジョーンズは27歳でこの世を去った。
その後も、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ニルヴァーナのカート・コバーンも若くして死んだ。
みんな27歳の呪いだ。
英ロックバンド、ザ・フ―の代名詞的楽曲「My Generation」では「Hope I die before I get old」
「年取る前に死にたいぜ」と歌っている。
若さとはロックンロールとともにあり、若さはロックンロールの象徴であった。

降りるはずの 駅はうしろ
泊まるべき 港をはなれてく


だがこの曲の発表時、甲本ヒロト40歳。
歴史に名を遺した偉大なロック・ヒーローたちは若くして亡くなったのに、
自分はいまだ、40になってもなおロックンロールを続けている。
あそこで降りる筈だったのに、駅も港も今はもう遥か後ろ。
伝説になることが出来なかった。
死ぬにはもう遅すぎた。
「Too Late To Die」である。

まことにもって かたじけない
拙者まるで だらしがない
Too Late To Die まわる
Too Late To Die 何時間も
Too Late To Die エンドロール
Too Late To Die


かつて「THE BLUE HEARTS」のフロントマンとしてカリスマ的存在だった男は
実は強い意志もプライドもないだらしのないグータラ野郎。
同じところをぐるぐる回り続けながらロックを飯のタネに生きている。
自分はそういう人間だとここで言い放つ。
期待に応えられず、すいませんでしたと。

もう自分は本物のロックスターではない。
若くして死ねなかったのだから。
そう、自分はペテン師なのだ。
偽物のロックスターとして、今もこうして偽物の遺伝子をバラまき続けている。
「もうヒーローなんて請け負わないよーん」という宣言を、ここでしてしまったのだ。

それが自分。甲本ヒロトという男。
『Too Late To Die』とは、かつて自分が憧れたロックスターにその身をあやかりながら、
自身を皮肉って描いた曲だった。
そしてそれは、いつまでもロック界の羨望の的として崇め続ける
周りの人間と評価に対しての皮肉でもあった。








参考資料
http://moonlightshadow110.blog.fc2.com/blog-entry-1038.html
https://lyrics.red-goose.com/james-dean-the-eagles/
http://j-lyric.net/artist/a00f6d1/l00197f.html
http://www.viviennewestwood-tokyo.com/info/CSfViewGuide.jsp?tp=13
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